2017年6月2日金曜日

栗本薫のグイン・サーガ第一巻豹頭の仮面

 いよいよグイン・サーガを読み始めてみた。
 昔、アニメで見て興味は持っていたのだが、いざ読み始めるとなるとなかなかに勇気が必要であった。
 というのもすでに141巻出ているからだ。一日一冊読んだとしても141日かかってしまうという超大作である。
 しかし、141冊あるとは言っても人が一人で書いたものだ、きっと一冊一冊は内容が薄くてスルッと読めるだろうと浅慮な考えで読み始めることにしたのだ。
 
 いやしかし、読んでみるとかなり、内容が濃い。
 一番驚いたのはその世界観の作り込みの深さだ。そこら辺にある十把一絡げな作品と違い、そこにはグイン・サーガの世界があるのだ。
 世界観の作り込みの凄さで私が脱帽したのは、比喩がその世界の物になっているということだ。ヤーンの神などというのは現実の世界には存在しない。その作中にしか存在しないにも関わらず、そのヤーンの神で物を例えるのだ。それでもその意味がわかるようになっているのが栗本薫の文章の凄さなのだろう。

 内容も濃い。どっぷり別の世界に浸かることができて、現実を忘れてしまう。

2017年5月27日土曜日

赤川次郎の三毛猫ホームズの推理

 三毛猫ホームズの推理はドラマにもなっていたし、聞いたことのある話ではあったが、なかなか読む機会が無かった。今回読んでみようと思ったのは、これだけ赤川次郎が沢山小説を書くことができる秘訣がこの中に入っているのではないかと考えたからだ。

 私は知らなかったのだが、赤川次郎はコメディミステリの名手なのだそうだ。そういったジャンルがあったことすら、寡聞にして知らなかったのだが、たしかに、読んでみると大変軽妙で読みやすい。

 小説は大抵地の文や心理描写が多いのに対して、この三毛猫ホームズの推理はセリフがとても多い。まるで、脚本のようだ。確かに、赤川次郎は脚本も書いていたようなので、恐らくそれとの絡みもあるのだろう。

 読む前は赤川次郎は多作だから一作一作の内容は薄いだろうと思っていた。しかし、読んでみると、事件が起こる起こる。解決する前にこれでもかと事件が起きていくのだ。それらがどう解決するのかと気になって読み進めていると、いつの間にか本も後半に差し掛かり、一つ一つ解決するうちに物語が終わってしまう。

 一つ一つの謎も良くできている。私は密室にそれほど造形が深いわけではないが、この作品に出てきた密室はよくできていたように思える。読んでいる間にその解決方法が分からなかった。読み終わった後に、なるほどなと感心した。

2017年5月24日水曜日

芥川龍之介の猿蟹合戦

 猿蟹合戦の後日談である。
 シンデレラが結婚した後幸せになったのかと言うような話だ。

 猿蟹合戦というと蟹が猿に復讐するというものだ。その後どうなったのか、蟹とその仲間たちは皆幸せに暮らしたのか。

 実は皆捕まってしまったのだという。そりゃそうだ、なんせ殺人?殺猿をしてしまったのだから、これは罪は重い。捜査一課だって必至に捜査をして、犯人を割り出し、検事たちは死刑にしようと躍起になるに決っている。

 そして、捕まった蟹は死刑となり、その他の仲間たちは無期懲役になってしまった。なんと可愛そうな、復習をしただけなのに。と、考えてしまうのは蟹を主人公に善悪のバイアスを掛けて話を読んでいたからだろう。

 しかし、猿も悪いやつである。少なくとも青柿を蟹に投げて死に至らしめているのだから、その点に関しては罪に問われるべきだろう。傷害する意図があったかどうか分からない。と言うのはそうだとしても、結果として死に至らしめていたらそれはそれで、立派な犯罪だ。ここに猿を優遇する社会の働きが出ている。

 ところで、この復讐劇というと、忠臣蔵を思い出す。この忠臣蔵のもととなった事件の赤穂事件では、討ち入りの後どうなったのだろうか。討ち入りを果たした浪士たちは全員切腹を命じられた。これは今で言う死刑と同じようにとってしまいがちだが、意味合いが違う。今で言う死刑は斬首である。この切腹は斬首と違って、浪士たちの誇りを考慮した結果になっているのだ。
 つまり、日本では昔仇討ちを完全には否定しないというような文化があったことになる。

 しかし、蟹は死罪になってしまったという。仇討ちは一切認められないという強い社会的な意志が感じられる。これは昔と比べて社会が変わってしまったということなのだろうか。

 そして、最後の「君たちも大抵蟹なんですよ」という一文。これは仇討ちをしてはいけないという意味のものではない。裁判をすれば不利な立場に立つことになるというのをいっている。なぜなら、社会を作るのはいつだって頭がいい方である。ここで言うと猿が社会を作り出す正義なのだ。その正義に逆らってはいけない。蟹が猿に仕返しするためには猿よりも狡猾になり、社会を自分たちで変えていく必要がある。という赤い作品だったのでは無いだろうか。蟹だけに。

2017年5月23日火曜日

泉鏡花の外科室

 頑として麻酔をしないで手術を受けると言い張る女性の話。
 ある種のミステリーである。

 何故手術をするときに麻酔をしてはいけないのか。最初にその理由が気になり物語に惹かれる。誰かの遺言なのか、宗教上の理由か、それとも寝たら死ぬと思っているのか。
 
 どうやら、彼女は麻酔で寝てしまったときに、言ってはいけないことを言ってしまうのではないかと不安に思っているのだ。不安に思っているというよりも、寧ろ確信しているといったほうが近い。寝てしまえば絶対に言ってしまうとまでに思い込んでいるのだ。
 
 絶対に言えないこととはなんだろう。夫がその場にいて、夫に対して言えないことなのだろう事は分かる。しかし、夫に対して言えないことがあるのだと宣言するのは果たして正解なのか。
 
 言えないことが何かは夫にわからなかったとしても、言えないことがあるというその事実だけで、夫婦間には不和が生まれるだろう。
 寧ろ、なまじっか内容を知らないばかりに最悪の事を想像する可能性だってある。ここで言う最悪のこととは何かは分からない。これはその夫にとっての最悪のことである。例えば妻の不倫、借金、家柄等、その夫の価値観にとって最悪だと考えられる可能性を考えるに違いないのだ。

 それでも、妻は言えないと言って、頑なに麻酔を拒む。

 結局外科部長が手術を麻酔無しですることになり、腹を切り裂かれる。その際に痛みはあるが、外科部長に対してあなただから、と言うのだ。

 どうやら、外科部長とこの夫人の間には何かがあるらしい。

 ここで、第二部に行く。

 この、第二部なのだが、結局は二人は昔あったことがあり、実は婦人も外科部長もお互いのことが好きになっていたという若かった頃の青い話なのだ。

 一見昔好きだっただけで、お互い付き合ったことも無ければ肉体関係もない。何も問題は無いように思える。しかし、この婦人にとって、好きになったことがあるという、事実そのものが重要な意味を持っていたのだ。

 人間隠れていれば何をしてもいいと、バレなければ何でもいいと思いがちだが、考えた時点で悪なのである。何とも哲学な話である。人に良くするときに見返りを期待するのは善ではないというのと同じだろう。

 この好きになってしまっただけで、夫に言えないほどの罪を抱えたと考えた婦人の価値観というのは昔は普通だったのか。それともこの婦人独特の考え方なのか。

 手術が終わって二人は同日に死んでしまう。それほどに二人の心は通じ合っていたのだ。肉体は通じ合っていなくても、精神が通じ合っていたら、それは罪にあたってしまうのか。

2017年5月22日月曜日

夢野久作の懐中時計

 懐中時計

 半ページにも満たない短編。
 懐中時計とネズミのはなし。

 あらすじ

 懐中時計が、チクタク動いていると、ネズミがやって来て、誰も見てないのに動いているのは馬鹿だという。
 それに対し、懐中時計は誰も見てないのに動いているから、いつでも役立てる。人の見てない時、あるいは人の見ている時のみに動いているのはどちらも泥棒だと言う。
 ネズミは恥ずかしくなって去ってしまう。

 感想

 誰も見てないのに動いているのは馬鹿なのだろうか、それとも泥棒なのだろうか。
 これはいわゆる容量のいい人というのはどういうひとかという問題提起なのだろう。人が見ているときだけ、働いて。そうでない時はだらけている。上司にはごまを擦って、その他の人に対しては態度が違う。ぱっとみ嫌なやつだが、嫌なやつだからと言って泥棒であるとは限らない。嫌なやつは泥棒なのか。泥棒は嫌なやつだが、嫌な奴は泥棒とは言えない。十分条件と必要条件を思い出す。
 
 懐中時計は働き者だ。人が見ていようがどうしようが、電池の続く限り動き続ける。しかし、これは働き者だからナノではなく、動いてないと時が分からなくなってしまうからだ。もし、時計が止まっていて、人が来たからと言って、急に動き出したとしても、時間調整をしなければ、時間は間違ったときから刻み始めてしまう。これは要領がいい云々以前にまず、労働者として失格だろう。
 だから、懐中時計は自分の最低限の仕事をするために動いているとも言える。

 もし、懐中時計が時間調節の機能も持っていたら、どうなるだろうか。人がいない時は止まっていて、人が来たら時間を調節して、正しい時を刻む事ができるようになる。これならば懐中時計はやろうという気にもなるだろう。
 人間側から見たときにはそれは、サボっていて迷惑な奴に見えるのだろうか。いや、そもそも、人間の見えないところでサボっている前提なので、人間が迷惑と思うはずは無い。ならば懐中時計はいくらでもサボって問題がないのだ。
 この懐中時計が愚直にもずっと働き続けなければならないの時間調節の機能を持っていない、つまり能力が不足しているからに他ならないのだ。

 人が見ていないときに動くものが泥棒だというのはよく分かる。泥棒は人目を忍んで悪事をはたらくものだ。堂々としてるのは強盗である。
 では人が見ているときにしか働かないのは泥棒なのか。これはよくわからない。賃金泥棒ということなのか。賃金を払っているのに、その上司が監督しているときしか働かず、他の時間はサボっているから賃金泥棒。そんな感じはする。
 しかし、人に見せるのが仕事の懐中時計の場合はこれは当てはまらないのではないか。この懐中時計の仕事に人が見ていない時の行動は決められていない。あくまで、人に正しい時を見せるのが、この懐中時計の仕事なのであって、それさえ守っていれば、他の時間に賃金云々言われる筋合いは無いだろう。
 しかし、そういった小賢しいことを考えさせないように、働かせるのが上司の役目ではある。


2017年5月21日日曜日

夢野久作のガチャガチャ、縊死体

ガチャガチャ

 意地悪なやつが嫌な目に遭うという、勧善懲悪な話。
 
 草の中で色々な虫が綺麗な音を出して、演奏会をしていた。それに感心した月はつゆを降らせて虫たちに報いていた。
 しかし、轡虫が勝手にやって来て、ガチャガチャ音を立てて、演奏会を台無しにしてしまう。俺が、一番大きな音を立てられるという風に威張っていた轡虫だが、大きな音を立てたばっかりに、人間に捕らえられてしまうという話。

 これは多分轡虫が悪いやつで、威張っていると悪いことが起きるという童話のようなものなのだろう。
 しかし、轡虫の音がうるさいからと言って、かってに悪い虫にされては轡虫もたまったものではないだろう。
 因みにこの轡虫という虫、私は知らなかったのだが、キリギリス科の昆虫なのだそうだ。
 アリとキリギリスでもキリギリスは悪役になっていた。キリギリス科の虫というのは人間に嫌われがちなのだろうか。
 
 それは置いておいて、このうるさいガチャガチャをという音を立てるから、悪い虫だというのは非常に人間目線の考え方だ。そもそも、この話は虫と月の話なのだから、虫と月から見てこのガチャガチャいう鳴き声がうるさいかどうかを考える必要があるのではないか。
 虫は自分たちが奏でる音でいっぱいいっぱいで、他の虫の音なんて気にしてないだろう。仮に気にしていたとしても、それは、自分の音にかぶって邪魔だということだけで、嫌な音かどうかは関係なさそうだ。まあ、大きい音は邪魔かもしれないが。
 月はどうかと考えると、うん届かない。まあ、こんな事言っても、詮無いことだ。

 で、この美しいかどうかという基準はあくまで人間本位なのだが、それにしても、そのうるさいガチャガチャ音の轡虫を捕まえていく人間というのは一体どういう魂胆があるのだろうか。
 うるさいものが好きなのだろうか。潰さないで籠に入れた点から考えて、うるさいから殺してやろうとは考えてなさそうだ。では何のためにもって帰るのか。これは虫なら何でもいいということだ。何でもいいからとにかく虫を捕まえて持って帰りたい。そのときに一番近くに大きな音を出しているのがいたから、持って帰る。
 何という悪食。なんという大食漢
 一番趣味の悪いのは人間だとしか思えない。

縊死体

 最後に色々可能性を考えさせてくれる作品。

 サイコパスな男が好きな女を殺して、その死体を縊死体のように見せかけて放置している。そして、その事が新聞記事になっていないかどうかを毎日確認する。ある日、あるきが新聞に載る。それを不審がって現場に行ってみると自分が首を縊っている。

 何とも、良くわからないホラーな話だ。しかし、この時代にサイコパスを書いていたのは面白い。そもそも、何で殺したのかもよくわからないし、新聞を毎日見るのが、犯罪が明るみに出てほしくないのか、出てほしいのかもよくわからない。そして、極めつけは自分が首を縊っていた、というところだ。これはその男がそう見ただけなのか、それとも実際に自分が死んでいたのか。

 想像の余地が非常に沢山の残されており、短編と言うのはこういった、完成させずに思考させる美学というのもあるのかと感心した。

2017年5月20日土曜日

新渡戸稲造の武士道の山

 武士道の山というのがあるらしい。人はその山の頂上を目指して歩いていくのだが、その頂上に至るまでに四つ、頂上を入れて5つの人種がいるのだそうだ。

 最初は野蛮人である。これは武士道の山の一番下。麓にいる者たちのことだ。彼らは野蛮で自分の本能に従って動くので、戦争の時は兵卒として真っ先に突っ込んでいくが、平時にはかなりの危険人物となる。
 これは現代日本で言うなら、犯罪者たちのことだろう。罪を犯す人は何故その罪を犯すのか。本能に従ってその場で衝動的に何かを行ってしまうからだろう。これは確かに武士とは言えない。

 次はもう少し山を登った所にいる人達。彼らは、本能のままに動く野蛮人ではない。しかし、威張るのだ。威張り散らすのだ。誰かれ構わず、威張る。自分より上の人にはそういった態度は取らないだろうが、本能のまま行動しないと言うだけで、全然尊敬に値しない野蛮人なのである。
 彼らは現代社会でもよくいるだろう。何も知的好奇心を持たず、人に威張ることを生きがいにしている。コンビニで店員に偉ぶったりするのは彼らの常套手段なのだろう。

 次は山の中腹である。山の中腹にはそれなりの知的好奇心をもった似非知識層がいる。三文小説しかよまず、知識も大して深くはないが、大言壮語し社会を語るのだそうだ。彼らは結構偉くなれるのだそうだが、やはり、上と下には態度が違う。
 これらの人は会社でそれなりに偉くなっている人たちに多そうだ。知識は会社で学んだ分だけあるのだが、深く聞かれるとそれは分からない。

 ここまで、聞いた分だと三種類とも何ともあまり見上げた者たちで内容に思える。これで後二種類で武士道の山を登りきることができるのか不安になる。

 次の四種類目は、結構立派である。誰に対しても偉ぶること無く、目上の人に対しても自信を失わない。平等主義者は立派なものである。これはもう、頂上であるように思えるのだが、実はそうでは無いのだそうだ。
 彼らの言葉は立派に聞こえるのだが、心に残らない。彼らが去っていってしまえばすぐにう忘れ去られてしまうというのだ。 

 真の武士道というのはキリストのような精神の事を言うらしい。その存在そのものが去ってしまってもその言葉、その人が生した事自体は残るような人が武士道の山の頂点にいるのだというのだ。
 確かにキリストは死後蘇る。それは皆の心のなかに思想として蘇るということだから、まさに去ってからも残ることのある者が武士道であるという考えと合致している。

 だが、私は武士道の山には更にその上があると考えている。それは、何も残せないということを知って尚、その人を支えようとする人である。いわゆる滅私の精神だと考えているのだが、例えば、キリストは死んでしまってからその思想が広まった、それは彼らの弟子たちがキリストの思想を広めたからに他ならない。
 自分の思想を新たに考えるのではなく、キリストの考えを皆の心に残そうとするなんてのはなんて立派な心がけだろう。人々の記憶に残らなくても、関節的に世界に関わろうとする。その支える精神が六番目の武士道の山だと思う。