武士道の山というのがあるらしい。人はその山の頂上を目指して歩いていくのだが、その頂上に至るまでに四つ、頂上を入れて5つの人種がいるのだそうだ。
最初は野蛮人である。これは武士道の山の一番下。麓にいる者たちのことだ。彼らは野蛮で自分の本能に従って動くので、戦争の時は兵卒として真っ先に突っ込んでいくが、平時にはかなりの危険人物となる。
これは現代日本で言うなら、犯罪者たちのことだろう。罪を犯す人は何故その罪を犯すのか。本能に従ってその場で衝動的に何かを行ってしまうからだろう。これは確かに武士とは言えない。
次はもう少し山を登った所にいる人達。彼らは、本能のままに動く野蛮人ではない。しかし、威張るのだ。威張り散らすのだ。誰かれ構わず、威張る。自分より上の人にはそういった態度は取らないだろうが、本能のまま行動しないと言うだけで、全然尊敬に値しない野蛮人なのである。
彼らは現代社会でもよくいるだろう。何も知的好奇心を持たず、人に威張ることを生きがいにしている。コンビニで店員に偉ぶったりするのは彼らの常套手段なのだろう。
次は山の中腹である。山の中腹にはそれなりの知的好奇心をもった似非知識層がいる。三文小説しかよまず、知識も大して深くはないが、大言壮語し社会を語るのだそうだ。彼らは結構偉くなれるのだそうだが、やはり、上と下には態度が違う。
これらの人は会社でそれなりに偉くなっている人たちに多そうだ。知識は会社で学んだ分だけあるのだが、深く聞かれるとそれは分からない。
ここまで、聞いた分だと三種類とも何ともあまり見上げた者たちで内容に思える。これで後二種類で武士道の山を登りきることができるのか不安になる。
次の四種類目は、結構立派である。誰に対しても偉ぶること無く、目上の人に対しても自信を失わない。平等主義者は立派なものである。これはもう、頂上であるように思えるのだが、実はそうでは無いのだそうだ。
彼らの言葉は立派に聞こえるのだが、心に残らない。彼らが去っていってしまえばすぐにう忘れ去られてしまうというのだ。
真の武士道というのはキリストのような精神の事を言うらしい。その存在そのものが去ってしまってもその言葉、その人が生した事自体は残るような人が武士道の山の頂点にいるのだというのだ。
確かにキリストは死後蘇る。それは皆の心のなかに思想として蘇るということだから、まさに去ってからも残ることのある者が武士道であるという考えと合致している。
だが、私は武士道の山には更にその上があると考えている。それは、何も残せないということを知って尚、その人を支えようとする人である。いわゆる滅私の精神だと考えているのだが、例えば、キリストは死んでしまってからその思想が広まった、それは彼らの弟子たちがキリストの思想を広めたからに他ならない。
自分の思想を新たに考えるのではなく、キリストの考えを皆の心に残そうとするなんてのはなんて立派な心がけだろう。人々の記憶に残らなくても、関節的に世界に関わろうとする。その支える精神が六番目の武士道の山だと思う。
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