2017年5月2日火曜日

坂口安吾の悪妻論

 この悪妻論と言うのは、要は一般に思われている悪妻は悪妻ではなく、良妻と思われている者こそが悪妻であるという坂口安吾の考えを表した、小論である。
 僕自身は結婚をしていないので、良妻、悪妻と言われてもなかなかピンと来ない。だが、一行目に書いてある
 悪妻には一般的な型はない。女房と亭主の個性の相対的なものであるから……
ということに関しては、きっとそうなのだろうなと思うことぐらいはできる。 
 まあ、相対的な物というならば、恐らく人間関係は押しなべて全て相対的な物と言えるのでは無いかとも思う。僕にも仲の良い友人はいるが、その友人が世界万民に対し絶対的に良い友人足りうるかと言えば、そんな事は無いだろう。僕に対してであるから良い友人になっているに違いない。そう、友人関係は相対的なのだ。とは、言ってみたものの僕の友人はなかなか八方美人な気もするので、世界万民に対し友好関係を築けてもおかしくは無い。
 なにはともあれ、良妻と悪妻の違いはそれを受け取る者によって変わってくるというのが坂口安吾氏の考えなのだろうが。何をして、そういった考えに至ったのかはよくわからない。何をしてというのはきっかけのことなのだが、悪妻論に書いてあることに従えば恐らく、平野君の包帯姿を見た事がトリガーになって、悪妻について考え、悪妻論という本を書こうという気になったのだろう。しかし、それ以前に気になるのは平野君とその細君に関してではなく、坂口安吾氏とその細君の関係性である。
 この悪妻論の初出は青空文庫に因ると1947年7月だそうで、坂口安吾が細君であるところの坂口三千代と出会ったのが1947年3月。結婚が1947年9月だそうだ。
 僕自身は作品と作家は分けて考えるべきと思っており、その作品のバックボーンを調べるのは邪道であるとすら考えていたのだが、なかなかどうして、調べてみると人の生活を裏から覗くような出歯亀的な楽しさがある。3月に出会い。7月に悪妻論。9月に結婚。一体何を思ってこの悪妻論を書いたのであろうか。
 結婚前ということで真っ先に思い浮かぶのはマリッジブルーであろう。
 魅力のない女は決定的に悪妻だ
とあるように、細君の魅力が薄れ、悪妻になってしまうのを恐れているようにも見て取れる。結婚生活は長い。自分のパートナーが常に自分にとって魅力的な良妻であるとは限らない。結婚するまでは魅力的だったのに、結婚した途端魅力が薄れる。子供を産んだ途端魅力が薄れる。長い共同生活の倦みで魅力が薄れる。魅力がなくなっていく可能性などというものは山ほどに考えられる。だからこそ、マリッジブルーになって、こんな本を書くよになったとも考えられるが、やはりそれは違う気がする。
 何の根拠もないが、これは婚前契約書なのでは無いだろうか。この悪妻論一般論を語っているように見えて、割りと主観的且つ個人的な話が多い。例えば浮気をされても魅力的だの、知性が無いのが魅力が無いだの。夫婦関係が相対的だと言うなら、それだってそれぞれの関係によって良し悪しでいいではないか。しかし、相対的と言っておきながらも、あくまで絶対的っぽい意見を言いまくっている。これは坂口安吾から奥さんへのメッセージなのではないか。少々浮気をしても魅力的だ。言い争いになっても知性があることが魅力的だ。辛いことがあってもそれが人生だ。だから君は良妻になろうと頑張らず、自由に魅力的にあって欲しい。そういうメッセージのように思える。
 そんな風に思えるのだが、最後に疑問が残る。それが平野君だ。平野君の細君はどうやら戦争犯罪人の如き暴力者だそうだ。それでも細君を愛している平野君は立派だと言いながらも、それは揶揄にも聞こえる。家庭内暴力に関して、悪妻論には書いていないのだが、もし自らの細君が平野君の細君のように攻撃を仕掛けてきたら、それに対しては坂口安吾氏は何を思うのだろうか、魅力的だと思うのだろうか。

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