2017年5月17日水曜日

太宰治の貨幣

 貨幣は女性名詞であるらしい。貨幣が女性というのは聞いたことのない話であるが、一般に英語圏の女性名詞男性名詞という話から行くと女性名詞だということらしい。

 女性名詞ということはとりあえずわかったが、貨幣が女性名詞だからと言って貨幣を女性に見立てて、女性の語り口調で、小説を書いていくというのは非常に面白い試みだ。

 この主人公の女性、女性と入っても貨幣なのだが、百円の紙幣なのだそうだ。今では百円の紙幣などというものは存在しなく鳴ってしまったが、太宰治が生きていた頃にはまだ、百円の紙幣が存在したというのだから、随分とインフレに鳴ったものである。今では弐%の物価目標さえも達成できないでいるのに対し、昔はどういうレベルのインフレ率だったのだろうか。

 まあ、そんなことは大して重要な事ではない。ここで重要なのはその百円の貨幣というのが最高額の紙幣だったということだろう。
 今で言うところの一万円札のことなのだろう。今の一万円札は福沢諭吉で当然男なのだが、昔の百円は誰だったのだろうか。私の記憶では聖徳太子だったようなきがする。聖徳太子が百円の顔なのなら、女性か男性かでいうと当然男性であることからして、語りも男性であるべきであるかのように思えてしまうが、そうではなく、女生として、語っている。これは貨幣に書かれているのが男性か女性かが重要なのではなく、貨幣自体が女性名詞であるということが大事だったのだろう。

 この百円紙幣。最高額の紙幣であるから、最初はお高く止まっている、しかし、次第二百円紙幣、千円紙幣などが現れて、最高額の紙幣であるという地位を追われてしまう。そのことを大変不満に思っているという紙幣の気持ちが書かれている。

 他にもこの紙幣が思う所に因ると、人の手を渡り歩き、くしゃくしゃになっていくのは耐えられないらしい。とはいっても、紙幣である、ずっと同じ一人の元にいてそこを動かないというわけには行かない。
 色んな所を転々とし、関東を離れ、また関東に戻ってきて、戦争を経験しその時時でのお金の使われ方をまさに当事者として見ているというのだ。
 そう考えるとお金の目線というのは大変面白い。
 こういった使われ方は嬉しいが、こういった使われ方は嬉しくないといった気持ちが芽生えるのだろうか。多分芽生えるのだろう。

 お金に限らず、付喪神という考え方がある日本人にはこのお金が意志を持っているというのは非常に受け入れやすいと感じた。

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