櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
有名な都市伝説だが、梶井基次郎の小説が元になっていたのは知らなかった。
桜のあまりの美しさに不安を覚えるが、その下に屍体が埋まっていると考えれば、納得できるという分かるんだかわからないんだかな話なのだが、そのイメージだけは鮮烈に伝わってくるから面白い。
そもそも、この小説が書かれるまでは桜の木の下に屍体が埋まっているイメージは無かったようだ。桜というのはただ美しく、みんなで楽しく酒を飲む場所というそういった植物だったのだ。
これを一種の怪しい物に変えてしまったのだから、この本の影響力はすごい。
私のイメージでは、桜と言うのは美しいものでも、怪しいものでもなく、チャドクガの幼虫の毛虫が大繁殖する迷惑な木である。
風情もへったくれも無いのだが、これも桜の木の見方の一種では無いだろうか。これを中心に据えて小説を書いたら梶井基次郎程に評価してもらえないだろうか。いや、無いだろう。と適当に反語で締めておく。
まあ、私のイメージは蛇足だ。
江戸時代あたりから桜というのはみんなで花見に行く美しいものの象徴になっていたようだが、それ以前は必ずしも良いものとして見るものでは無かったらしい。
その昔は、桜というのは怪しいから避けて通るというものだったという。その、昔に忘れられてしまったイメージが梶井基次郎によって復活させられ、世間に広がったというのだから、やはり、桜というのはどことなく怪しげな雰囲気を持っていると言うのは明らかなのだろう。
しかし、美しい物を見たときに凄惨な事を想像しないと落ち着かないというのは何とも不思議な考え方である。
ただの気難しい天邪鬼であると考えることもできるが、まあ解らないでもない。
みんなが美しいというと、その反対の事を思い浮かべて悦に入りたい欲求というのがあるのだが、それのことなのだろうか。
今となっては桜の下に屍体が埋まっているのは万人の共通のイメージである用に思える。誰でも知っている都市伝説だ。
それでも、桜を見にいって花見をする。これはやはり単純に美しいからなのだろう。そこにその美しさを純粋に楽しまずに屍体がいるイメージを持って楽しんでいる人がいることもまた面白いことだ。
一つ何か事が起きても、ものの見方は皆違う。全員が同じ方向を向いて同じ方向に歩いて行かなければならないとしたら、それはもはや全体主義だ。
あれは美しいと言われたら。美しくないイメージを抱き、あれが正義だと、言われたら、それは実は悪だという考えを持つ。実に反権力反体制で結構なことだと思う。
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