あらすじ
あの武士道で有名な新渡戸稲造が死について語っている評論である。
死に対してどう思っているかによって、その人が凡人であるか一角の人であるかが分かる。
死の価値は生によって定められる。そして生の価値を定めるのは義務であるから、死を軽んじると言うのは義務を軽んじるのと同じである。
己のなすべき義務をなせないで死ぬのを恐れないのは、熊や動物などと同じなのだ。
また、死と言うのは生の一段回である。なぜなら、忘れられさえしなければ死んだとはいえないからだ。これはキリストの死などの事を指している。
そして、死ぬときはドラマチックに死ぬよりも、生も死も同じように、何も変わらない風である事が一番エライのでは無いかと考えている。
感想
確かに、死というのは絶対人が通るため、一生のうちに避けては通れない課題である。この全員通る物をどう考えるかで人が分かると言うのは、まさしくその通りだと思う。
死を当然の物と考えるか、嫌なものと考えるか。本棚にどんな本があるのかを聞くのと同じくらいその人の人間性が垣間見えるのだろう。
死はまだ遠いものではあるが、いつかは通るものとしてある種諦めを込めて私は考えている。
ところで、この評論を読んで一番面白いと思ったのは、死は生によって定められ、生は義務によって定められるというところである。
死に様と生き様が表裏一体なのは何となく分かる。生にしがみついている人は死を恐れるし、生に諦観を持っている人は死をなんとも思わない。これは分かる。
しかし、生は義務によって定められると言うのは一体どういうことなのだろうか。
義務。国民の三大義務は教育、勤労、納税である。義務というのはこのことを指しているのだろうか。
いやこういう政治的、憲法的なことでは無いだろう。
ならば何か。恐らく、人生を通してなすべきことのことをいっている。
自分の人生を通してしなければいけないこと、それは義務なのか。それを怠ると、どうなるのか。義務では無く、生きる目的のことでは無いのか。
色々疑問点は出てくる。
例えば、相続で食べて生きてく人は義務を放棄しているのか、それとも財産を開放していく事自体がその人の義務なのか。
これは人生に義務があると、考えるとよくわからなくなる。人生とはもっと自由でいいのだ。きっと、時代が違うからこういう考え方になるのだろう。
しかし、この自由というのも曲者だ。義務ではなく自由。だからこそ逆に迷ってしまう。
何でも自由ならば死んでもいいではないか。なんとも現代人の好きそうな考え方だ。寧ろ昔のように士農工商で義務を仕事を与えられていたほうが、人はイキイキできたのかもsれない。
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