平民道
渡米船上の感激
ここはこれから平民道を書く上でのまえがきの部分である。
新渡戸稲造は武士道を書いたことで有名な人物で、武士の他に平民の道に関しても書いたことがあったのは知らなかった。武士道は読んだことが無いので、平民道から読むのも画竜点睛を欠く感じで何なのだが、気にせず感想を書いていこうと思う。
新渡戸稲造は渡米する時船の上でデモクラシーについて考える。デモクラシーとは日本語で民主主義のことだ。このデモクラシーが国体と相反するように思われていることを新渡戸稲造は残念に思っている。
因みに国体とはその国のある姿のことで、この時代で言うと天皇主権のことを云う。
天皇が主体の君主制の国である日本ではデモクラシー、つまり民主主義は民が主体になる点で、天皇と相反する。その為デモクラシーは国体と相反するという風に思われていたようだ。
今では、この民主主義は当然のことで、天皇は象徴だと言うのが普通のことになっているが、一昔前は民主主義が国体を揺るがすのでは無いかとまでに思われていたのが面白い。正しくは常識が完全に変わっているのに、なんとも思っていない現代の人々の心持ちが面白いと思える。
何はともあれ、新渡戸稲造はここからデモクラシーは平民の道であり、天皇の主権と相反するものでは無いという事を語ってくれる。
デモクラシーは平民道
何でもこの頃デモクラシーというのは流行になっていたらしい。今で言う、インスタグラムが流行っているというようなものであろうか。
しかし、新渡戸稲造は流行だからデモクラシーを標榜しているわけでは無いらしい。
もともと、武士道を書いていたときからデモクラシーの素晴らしさ、必要性には気付いていたと、声高に主張している。
そもそも、デモクラシーは民主主義と訳されている事が間違いの元だと思っているらしい。新渡戸稲造によると、デモクラシーの訳は平民道になるべきなのだそうだ。
民主主義と平民道では、その言葉から受ける印象が随分違うように思える。民主主義というのは、民が主になって政治を行うという、あくまで政治的な国の形を示してるように見える。これはきっと、主義という硬い言葉のイメージが政治色を想起させるのだろうと思える。
これに対し平民道は心も持ちよう、つまり道徳的なイメージを感じる。道と言うのは武士道を始め、剣道や柔道、華道、道教など、そのものを通して行う哲学的な考え方を指すようなイメージが有る。
つまり、新渡戸稲造はデモクラシーと言うのは政治的な制度の事を云うのではなく、そこに生きる人民の心の持ちよう、考え方、道徳のことを指すのだと、主張している。
そして、この平民道はどこから出てきた言葉かというと、武士道を延長させて作った言葉なのだそうだ。
武士道は少数の武士の守るべき道である。しかし、この時代、武士は廃止され、士族と言うのは戸籍上書いてあるだけのタダの文字列とかした。
つまり、もうすでに階級的な差は無くなり始めていたのである。階級の差が亡くなって武士がいなくなったら、次は一般民衆にその教えを広げるべきと考えた。
平民の平は武士の武力に対して平和の平。士に対し、民。ということで、平民道なのだそうだ。
平民道は武士道の延長
武士がいなくなったからと言って、その考え方を無くして、新たに平民の考え方を作る必要はない。平民に武士の考え方を教えれば良いのだ。
要するに道徳的教えを平民のレベルに下げるのでは無く、平民を皆、武士のレベルに引き上げる。それ故平民道は武士道の延長であるということになる。
武士は食わねど高楊枝。
こんな言葉があるように武士はなかなかに高潔な存在である。仁義礼智信など、およそ物語の主人公が持っているような能力は全て備えている。
昔はそういった高潔な教えを受けた存在は少なく、それが武士だった。これを広く民衆全員に教えたら良いのではないか。
実際これは大成功したように思える。
なんとも皮肉的な見方になってしまうが、ナショナリズム=国民主義。全体主義。というのはこれと同じ考え方なのだろう。
皆が、武士と同じ気持ちになれば、国を思う気持ちは全員が強くなる。全員が自らの国を守らねばと、責任感を感じるようになる。それがナショナリズムで、戦争へと日本人を駆り立てた力の一つなのだろう。
ここで僕は戦争が良いか悪いか、ナショナリズムが良いか悪いかを云うつもりは無い
それこそ個々人が判断すれば良いことだろう。まあ、きっとそれを判断せずに皆が言われたことを信じるのもまた、全体主義、ナショナリズムなのかもしれないが。
ここで、もう一つ新渡戸稲造考えを書いておく。それは武士が先か武士道が先かという話だ。まさに卵が先か鶏が先かという話なので、結論は出しようが無いのだが、新渡戸稲造は武士の前に先ず、武士道という武士の考えがあったと考えているようだ。
その為、民衆に対しても制度として、民衆を作るのではなく、平民道という教えを通して、平民を形成していくべきだと考えていた。
デモクラシーは国の色合い
これは先に書いた。平民が先が平民道が先かという話である。
国とは何なのか。共和制という制度を敷けば共和制の国になるのか。
因みに共和制というのは君主や貴族などが国を動かすのではなく、民衆の代表者が話し合いで国を動かしていく制度の事を指す。
新渡戸稲造は当然、共和制という制度だけしいても、共和制の国にはならないと、考えている。これはデモクラシーでも同じだ。デモクラシーつまり民主主義の制度に国の憲法を変えたところで、そこに生活する一般大衆がついて来なければデモクラシーは完成しない。
人が先か法律が先かは人が先になるのである。酒を作るのを禁止したところで、梅酒を作るのはもはや日本の文化。それを止めようとして法律を制定しようとも、皆が守ってくれなければ法律の体をなさない。なし崩し的に梅酒は作るのが問題ないという風に変わっていってしまうのだ。
その為デモクラシーを行うには先ず、平民道を広く平民に教え、平民を教化してから、自然と国としての形をなしてくると考えたのだ。
実際今の日本は新渡戸稲造のこの教えを実践できているのだろうか。
つまり、皆の心のなかに平民道があり、それゆえ、その色合いが政治にも現れるという風になっているだろうか。
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