2017年5月3日水曜日

夏目漱石の変な音

変な音


あらすじ

 主人公は胃弱かなんかで病院に入院している。その当時、隣の部屋から大根をするようなゴシゴシという変な音が聞こえてくる。その音が妙に気になって仕様がなかったが、遂に原因を究明すること無く、隣の人は退院し、自分も退院してしまった。
 そして、また入院することになった。そこで、三人の者と知り合いになる。一人は食道癌、一人は胃癌、そしてもうひとりは胃潰瘍であった。食道癌の者は退院し、胃癌のものは死を諦めとし、美しく死んだ。胃潰瘍の人は段々悪くなって死んだ。
 そんな中、変な音の原因を知ることになる。
 隣の部屋の担当だった看護師とひょんなことから知り合い、隣の人が逆に音を気にしていた事をしる。それは自らの立てるひげ剃りの音で、それを健康の印と思っていた隣人は大層羨ましがっていたそうだ。そして、気になっていた隣人の立てる変な音はきゅうりを擦って患部に貼る音だった。そして、その隣人は退院したはものの、すぐに直腸癌で死んでしまったという。
 そして、胡瓜の音で人を焦らせて死んだ男と、ひげ剃りの音で他人を羨ましがらせて回復した男に何の違いがあったのかを考えた。

感想

 なんともまあ、病人の多い話である。舞台が病院である時点で、病人が多いのは仕方の無いことだが、まあ出てくる人出てくる人が死ぬ話である。胃癌で死に、胃潰瘍で死に、大腸癌で死ぬ。体調が良くなったのは食道癌の者と自分だけだ。そんな死が身近にある不安なところではきっと少しの物音も気になるのだろう。
 隣の部屋から変な音がする。それも何かを擦るかのような。日常生活で生きていても、何の音か分からないが気になる音と言うのはある。だが、殆どは何の音か分かるものが多い。上からゴトリという音がしたらそれは十中八九椅子を動かした音だし、隣から漏れてくるピアノの音は勘ぐるまでもなくピアノの音に相違ない。日常生活では凡そのことは想定ができるのだ。
 それに対し、病院というのは非日常である。非日常的な空間では自分の知らない事、自分の想定できない何かが行われていても、不思議はない。そのため、隣から漏れる音の正体が分からないということがおきうる。夜中に胡瓜を擦る人がいると言うのはなかなか想像のしようがない。それも熱った足を冷やすために胡瓜の擦ったものを塗るというのは、僕が現代人でおばあちゃんの知恵的なものを知らないのが原因かも分からないが、なかなか分かるものではない。
 そういった謎の音を、死の恐怖に震えながら聞いていたのである。どういった気持ちだったのだろうか。文には脳神経を刺激するとか焦らせるとか書いてあるので、あまり良い気持ちで聞いていなかったのは確かである。しかし、この変な音が聞こえると言うのはただただ嫌なものだったかというとそんな事は無いように思う。
 隣人の音が聞こえる。隣人の音が聞こえなくなる。これらの二つは何を意味するか。隣人の音が聞こえるということは、隣に人がおり、確実に生きているということが分かる。しかし、音が聞こえなくなると、それは退院した可能性もあるが、死んでいる可能性もある。
 胃潰瘍の者はげえげえと吐く音を響かせていた。しかし、いつしかその音が聞こえなくなり、主人公は回復したのだろうと考えたようだが、実際には声をだす気力さえも失われる程死に近づいていたのである。
 病院では死はとても身近にあり、互いの生を知るすべは音しか無い。そんな中で聞こえてくる変な音は神経を逆撫で擦る音だったとしても、隣の人が生きているということが分かるホッとする音だったのでは無いだろうか。
 この主人公は生来大変消極的な人であるような気はするが、改めて考えてみると、隣の人に悪いからと言って、隣を覗かず、話しかけず、関係を持たないと言うのは、なんとももったいないことのように思える。病院に入っているということは誰しも体調が悪く同じような恐怖を持っている。いわば同志のようなものでは無いだろうか。お互いに話をすることができれば、死の恐怖の克服にもつながるような気がする。
 だが、実際どうなのだろうか。僕自身は大病をして入院したことは無いから分からないが、入院している者同士で話をするということは精神衛生上良い事なのだろうか。何となく単純に互いにコミュニケーションを取る事それ自体が精神に対して好影響を与える体で書いたが、実際は負と負のオーラの相乗効果によって互いの体調が悪化するとういこともあり得るのだろうか。もしそうだとすると、お互いの顔を見ず、音を聞きあうことで互いの生を確認し合うというぐらいの関係性の方が良いのかも知れない。
 そして、最後に主人公は隣人も自分の音を気にしていたということを知る。まさにコミュニケーションそのものだ。お互いがお互いの音を気にし合う。そして、片方は死んでしまい、もう片方は回復する。そこに何の違いがあったか考えると言うのはきっと反語表現だろう。何の違いがあったのか、いや無いだろう。
 皆が皆死に直面しており、そこに例外のある人はいない。それでも体調が良くなる者、悪くなる者という違いは出てくる。まさに運命と呼べるものだろう。これは病院だけに当てはまるものでもない。人生生きていて、同じようにしていても何らかの違いは出てくるものだ。ただ、自分が生きているということだけでも、死の運命を毎日乗り越えているという風に考えることもできる。
 日々を生きていける。ただ生きていることの幸せを噛みしめる。そんな話なのでは無いかと締めくくる。

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