2017年5月6日土曜日

宮沢賢治の黄色のトマト

 銀河鉄道の夜のような幻想的な話である。

 私と話をするのは蜂雀。蜂雀と言うのはハチドリのことらしい。しかも、生きているものではなく剥製になって博物館に飾られているのだ。

 蜂雀は語りだす。
 どうやらペムペルとネリという子が可愛そうな目にあったらしいのだ。

 しかし、この可哀想なことというのを全然しゃべらない。

 ペムペルとネリは畑仕事をして、生活をしているのだそうで、いい子たちなのだが、可愛そうな目にあってしまうという。

 蜂雀はそれを見ていたそうなのだが、もったいぶって全然どんな風に可愛そうな目にあったのかを教えてくれない。

 語りだすかと思いきや、黙って剥製に戻ってしまうのだ。

 そしてやきもきしていると、博物館の係の人が来て、蜂雀を脅す。するとまた話し出す。

 なんとも夢のような話である。
 先ず、蜂雀が話すというのもそうだし、博物館のガラスの中でしかも剥製になっているのに話しかけてくるのだ。
 それが私の頭の中だけの話で、妄想なのかと思いきや、博物館のかかりの人も蜂雀が話すということを知っている。しかもそれをおかしいとも思っていない
 なんとも不思議な世界観だ。
 
 ペムペルとネリはトマトを植えた。すると黄色のトマトが生る。

 そして、ある日、遠くで音楽が聞こえた。そこに行って見ると、音楽を聴くには入り口で黄色い物を渡して、銀色の物を貰う必要があるという事がわかった。

 ペムペルは黄色のトマトを取りに家に走った。

 それを持って二人は音楽を聞きに入ろうとしたが、トマトでは這入れないと、トマトを投げつけられ、笑われてしまう。

 そのペムペルとネルの可愛そうな話を聞き、私は泣いた。

 自分たちの大事にしている物を大人は分かってくれないという、なんとも可愛そうな話だ。
 きっと、「私」が蜂雀の話をしても、それを聞いて大人は笑うのだろう。

 しかし、私がこの話を読んで一番おもしろいなと思ったのは、蜂雀の云う「かあいそう」という文言である。
 なにが起こるか解らない不安を、ひたすら煽ってくるのだ。
 人間が「かあいそう」と云うならまだ何が起こるのか想像することもできようものだが、蜂雀が何をもって「かあいそう」と思うかは想像ができない。
 とても強い引きで、蜂雀が「かあいそう」というたびに何が起こってしまうのかと、先を読んでみたい気持ちが膨らんだ

 こういった謎の世界での繰り返しというのは読んでいて、幻想的にもなるし、先を読もう読もうという気にもさせ、とても良い技法だと思った。

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