2017年5月13日土曜日

横光利一の蝿

 蝿という作品は結局はみんな死んでしまう話である。

 登場人物は7人
 猫背の馭者と、農婦、男女、親子、田舎紳士である。

 皆が皆それぞれの目的を胸に街を目指す。
 しかし、馬車は道を外れて崖から落ちて皆死んでしまう。

 死というものは全くいつ起こるか解らないものである。これは人生ではまさに真理であるが、物語に於いては全くかけているもののような気がする。

 物語というと、プロットから話を作り始めるため、主人公がああしてこうして、最後はハッピーエンドと決まってしまう。

 でも、本当は途中の車で事故にあって死んでしまう可能性だってある。しかし、物語はあまりにも予定調和に進み、予期せぬ自体というのは起きない。これは非常に残念なことである。
 それの最たるものが主人公補正という現象なのだろう。主人公は神に愛されている。この場での神と言うのは造物主つまり作者のことなのだが、物語の中心に据えられたばっかりに、気軽に死ぬこともできない。
 
 というよりも、事故や流れ弾で死ぬことがなくなる。しかし、実際には人は色んな死の可能性に囲まれている。

 そこに現実世界との差が生じてしまう。

 ああ、なんとリアリティのない話が多いことか。

 西尾維新の戯言シリーズで思わせぶりに出てきたキャラクターがさっさと退場したことにスカッとした気持ちを感じたのはきっとそういった普段の、予定調和な物語のリアリティの無さに辟易していたからなのだろう。

 かと言って、リアリティを求め続けても、物語は混沌としていってしまう。方向性がなくなってしまう。

 最終的にはカタルシスを得られなければ物語としては問題がある。しかし、極めて主人公補正が強いと、あまりのリアリティの無さに途中でがっかりしてしまう。

 この方向性とリアリティのバランスが物語を作る上で大切なことなのだろう。

 後、この蝿という話で面白いのは、蝿との対比で描かれているところである。

 先程登場人物は7人と言ったが、実はその他に蝿と馬がいる。

 蝿以外は全員落っこちて死んでしまうが、蝿は生き残る。
 最初の一文で呆気無く蜘蛛の巣に引っかかり、死にそうになっていた儚い命の蝿であるにも関わらず、羽があるため、馬車と一緒に落ちることは無かった。

 まあ、もし落ちたとしても軽いから死にはしないのだろうが。

 この話は蝿がいなくても十分に成立する話である。にも関わらず、蝿がいるだけでこんなにも内容が芳醇なものになる。

 対比の構造というのはなんと面白いものか。

 死ぬものを出したら、死なないものも出す。何とも漢文のようだ。

 漢文の場合は例を前半で出してから、その教訓を今活かすとしたらどうするかという構造になるのだが、何にしろ構造として二つ作ると見比べることができて、考えるきっかけを与えてくれることになる。

 もっと、リアリティのある対比構造の物語が見たいものだ。

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