プロレタリア文学である。
プロレタリア文学というと小林多喜二の蟹工船が、真っ先に思い出されるが、このセメントの中の樽もまさにプロレタリアの悲哀を書いた作品である。
松戸与三はセメントあけをしている職人である。彼も他の労働者の例に漏れず、非常に過酷で長い労働を行っていた。
どれほど忙しいかというと、十一時間働きながら、鼻をかく時間も無いほどである。
それでいて給金はすこぶる悪い。酒も思い通りに飲むことがままならない金額なのである。
そんな不満を抱えながらも家族のために働く与三はある日、セメント樽の中から手紙を発見する。
手紙の内容は、セメント詰めをしている女性からのもので、何でも彼氏が事故によって破砕機に巻き込まれ、セメントの一部になってしまったのだそうだ。
彼女はそれを悲しみ、自分の彼氏が含まれたセメントがどこでどのように使われるか知りたいから、これを読んだ人は手紙の返事を書いて欲しいというのである。
与三はこれを読み、へべれけに酔っ払って大暴れをしたい気分になったが、そんなことをしたら子供はどうなると細君に攻められ、子供の事を見た。
という話なのだが、なんともこの時代の労働者は大変そうである。まあ、今もブラック企業などというものが大手を振って往来を闊歩しているけれども、昔ほど堂々と人権的に非道いことはしていないだろう。
たまに、暴露本でマックに卸す食肉加工が重労働で、死者も出るという話があるくらいなので、今がどれほど改善されているのかは、そんなに確実に分かることではないが。
それにしても、自分も同じような労働をしている中で、彼氏がセメントになった話を聞かされた与三の気持ちというのはどんなものだったのだろうか。
まあ、へべれけに酔いたくなる気持ちも分かる。なんせ明日は我が身だからである。いづれ自分もセメントになるないし、似たようなことになるだろう、と思いながら人生を生きると言うのはさぞ辛いことだろう。
パンドラの箱の一番奥には未来が残っていたというが、この予知の能力が最大の絶望を与えるというのもあながち間違いでは無いだろう。
これは今の労働者にも言えることだ。ブッラク企業に努めている人のみではなく、大体、大人達を見ていれば自分が将来どうなるのかは想像がついてしまう。これはセメントになることは無くても、絶望加減としては同じようなものだろう。
そんな与三の絶望を止めるのは、こどもである。自分が自暴自棄に成ったら、子供達が露頭に迷う。ならば自制しようという気になったのだろう。
矢張り、最後に自分を思いとどまらせるのは守るものがあることなのだろう。いや、主人公は偉い。
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