この運という作品は、神様に願掛けをし、運が良くなり、金が手に入った女性の話を聞いてどう思うかというものである。
おじいさんはこの話を聞いて、精神の充実が幸福だと考えるが、若者の方は物質の充実が幸福だと考えたようである。
この話に出てくる女性は、金運はあったが、男運が無かった。神様のお告げ通り出会った男性は、物取りでお上に捕まっていなくなってしまう。
それで、女性は泣くのだが、物取りの旦那が捕まったのはラッキーだったように思えて仕方がない。
この女性はもともと、日々暮らすのが大変で、それで神様に頼んでお金が持った入るようにして欲しいという願いをしたのだ。
ならばそれが叶えば万々歳ではないか。
しかし、老人はそうは思はない、やはり物質的な充足ではなく人対人の精神の充足が大切だというのだ。
しかし、金銭というのは物質的な充足だけでしか無く、精神の充足では無いのだろうか。お金だって、精神の充足足り得るのではないか。
お金が手に入ると嬉しい気持ちになる。これが、友人や恋人と一緒にいて嬉しい気持ちと何が違うというのか。
もともと、この女性は旦那も無ければ金も無いという、ナイナイ尽くしであった。それは母親がいなくなったのが原因であった。
つまり、母親がいなくなったと同時に精神的そして、物質的豊かさが失われてしまったということだ。
ならば精神も物質も両方ないのだから、どちらか1つでも手に入ればそれはありがたいことであるように思える。
もちろん両方あったほうが良いのは間違いない。しかし、両方願うのはなかなか、贅沢だとこの女性は考えたのだろう。
そして、どちらかを選ぶなら、先ずは衣食足りて礼節を知る、とあるように生きていくのに必要な物質を選ぶのは当然だ。
ならば、この女性は物質てき充足が得られたことを先ず、感謝するべきだと思う。
もし、金がなく、空にも困る状況で、精神の充足を先に必要だと考え、いい男性が目の前に現れたとする。しかし、食うに困っては何ともならないだろう。どんなに精神が充足しても、その前に胃袋を充足させたいと考えるはずである。
若者はまだ、先が長いから物質的充足を重視するのは分かる。物質的充足があれば、その後に精神の充足が来ると信じているのだ。
これは私がまだ、若いからそう思ってしまうだけなのだろうか。
老人は精神を充足させるべきだと考えているが、今の老人もそれが主流なのだろうか。現代の老人は昔に比べて、物質的充足と精神的充足が同じになってきているように思える。というのも今は介護の問題があるからだ。金があれば、いい介護施設に入れるし、親族に迷惑をかけずに済む。
しかし、カネがないと親族に介護を頼み、関係性が悪くなってしまう。
何とも地獄の沙汰も金次第である。
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