きのこ会議
タイトルの通りきのこが集まって会議している。なかなかファンタジーな物語である。というよりも童話、寓話と言ったほうがいい作品だ。
きのこ達が演説をするのだが、その演説をするきのこは大きく二つにわけられる。それは椎茸、松茸のような、人間が食べられる物と、食べたら痛い目に遭う毒きのこだ。
椎茸は人間に食べられ喜ばれることを誇りに思っている。松茸はそうは思いながらも、かさが開ききって胞子を飛ばす前に人間に食べられることを残念がっている。というのも、胞子を飛ばさねば子孫を増やすことができないからだ。
それに対し毒きのこは、自ら毒を持っていないから子孫を増やす前に食べられるのだと演説をする。役に立つから食べられる。役にたたなければ取られることは無いのだと食用キノコの考えを否定する。
他のきのこもこの考えに賛同する。毒にさえなれば、恐いものは無いと。
ここまでがきのこ達の議論である。確かに、きのこに限らず他の植物や畜生も人の役に立てば、人の手によって殖やしてもらえる。しかし、それが完全に種のためになるかというとそこにも疑問は残る。というのも、例えば、品種改良や遺伝子組み換えで人間の役に立つようになったとしても、それはもう、人間の庇護下でしか生きられない生物になるということである。それは長期で見たときにつまり、人類が滅んだ後のことなどを考えると必ずしも人の庇護下にあることが正しいとは思えない。その為、人の役に立つことも良し悪しがあると考えられる。
逆に毒を持つことはどうなのだろうか。役にたたねば殖やしてはもらえない。その代わり、自分たちの好きなように生きられる。この場合のデメリットは果たしてあるのか。
これが、ここらかの続きである。きのこの会議が終わると人間の家族がやって来る。そしてきのこが密集して生えているのを見つける。何故密集しているか。それはそう、会議をしていたからである。
そこには大きいきのこも小さいきのこもある。食べられるきのこに関しては、人間の側で大事に、小さいきのこはとっておこうという話になる。しかし、毒きのこは憎らしいからと言って全て踏み潰されてしまう。
通して読んでみると、結局悪いことをしてはいけません。という話になるのだろうと思う。毒を持ってブイブイ言っているとしっぺ返しをくらうという。
これを寓話として考えるなら実際の人間社会ではどうなのだろうか。反社会的を毒と考えるならヤクザとかテロリストになるのだろうが、この毒きのこはあくまで受け身である。自らを食べたものに対して、毒性を発揮する。つまり自分たちを利用しようとする者達に対してカウンターパンチを食らわせる存在。そして、関わり合いにならない限りは別段害を及ぼさない存在だ。つまり、自立した存在で、社会の役に立たず、利用しようとすると反発する。
そんな者は存在するのだろうか。一見ニートや無職の人にも見えるが、彼らは自立できてはいない。では、脱税して納税の義務を果たしていない者か。それでも、金銭を獲得して生活している限り、誰かしらの役には立っているはずである。では、資産家の子供で、働かずに浪費するだけの人なら当てはまるか。いや、金を払うからにはそれによって喜ぶ相手は存在する。
今の人類社会で何らの社会の役にたたず、自立することは、山にでも篭もらない限り難しい。そう考えると、僕は毒きのこが逆に羨ましく感じる。自分の身は自分で守り、自分だけで生きていく。なんともハードボイルドな生き様だ。
まあ、踏み潰されてしまってはなんともならないが。
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