2017年5月11日木曜日

宮沢賢治のオツベルと象

 オツベルと象と聞いて最初にワンダと巨像を思い出した。
 まあ、言葉の響きだけで関係は無いのだけれど。

 この話はプロレタリア文学のようなもので、オツベルという悪徳経営者に使い倒される、象の話である。

 一般にブラック企業の比喩として考えられているようだが、そうすると、良くわからない部分がある。
 
 それは、何故かオツベルが最初象を恐れていることだ。

 ブラック企業の社長がオツベルだとするならば、何故新しくやって来て働こうとする人を恐れる事があるのだろうか。

 これから搾取する相手を見たら、ほくそ笑むのが関の山だと思う。

 矢張り、海千山千の経営者のオツベルといえども、象の事は恐ろしいのだろうか。

 それは、新入社員でも大きな者には最初恐怖を覚えるということなのか。

 私はそうは思わない。オツベルが新入社員を恐れるはずが無いのだ。そして、新入社員ならば人間であるはずだ。

 今までの人間ではなく象が働き出したというのがポイントなのだ。

 これは恐らく、今まで手を出していなかった大きな力に手を出し始めたということを示唆している。
 例えば、新たな機械を使い始めた、何かの組織に接近し始めた。あるいは政治家との癒着を始めたとかでもいいかもしれない。

 とにかく、オツベルは今まで使っていなかった大きな力を使い始めたのだ。最初はそれに恐れもする。しかし、段々とその感覚が麻痺していく。

 手枷足枷をつけることで、自分はそれを制御できているのだと慢心するようになる。

 しかし、最後それは反転してしまう。制御なんてのはできていなかったのだ、オツベルは怒ったゾウたちによって踏み潰されてしまう。

 象を中心に考えるとたしかに、ブラック企業の社長に食いつぶされる侵入社員のように見える。

 しかし、オツベルを中心に考えると、自分の器に収まらない物に手を出した、例えば原子力発電をして、万が一の事故などありえないように、細心の注意を払っていたと言い張る東京電力のように見える。

 しかし、だとすると、その原発が赤い目で見たり、神に祈ったりととても、ものとはいえないような人間味を持っていることがおかしい、という風に疑問を持つかもしれない。

 だが、何もおかしな事など無い、ものだって、長年使っていれば疲弊してくる。それは者に限らず、システムだってそうだ。

 オツベルは象が赤い目で睨んでいたことに気付いていたのだろうか。

 きっと、気付いてい無かっただろう。喜んで仕事をしている象の気持ちも分からず、ビクビクしていたようなオツベルが、象の発する危険信号に気づくはずがない。

 バブルが弾けるときだって、きっと四方八方から赤い目で日本を睨むものがあったはずだ。しかし、殆どの人はそれに気づかない。象の群れの報復が来たときに気づくのだ。

 鉛玉など意味がない。謝罪なんてのも意味は無い。もう後は流されてしまうだけなのだ。

 そして、象は寂しい顔をして笑う。一つの時代の終わりには皆、さびしい顔をして笑うしか無いのだ。

 そして、最後の一文
 おや□、川へ入っちゃいけないったら。

 誰が誰に言った言葉なのか。

 可能性としては、牛飼い、牛、オツベル、白象、その他の象、月、赤衣の童子、百姓しかない。

 一般的には牛飼いが牛にいっているというのが通説らしい。まあ、会話文でなく、地の文で書いている辺り、語り部の言葉なのだろう。

 しかし、あえて私は、オツベルが白象に言ったことを、白象が思いだしている、と考える。

 白象は川で水くみをさせられていた。しかし、最初はそんな仕事は無かったのである。きっと、オツベルは最初は白象に優しく、川へ入ってはいけないと言っていたのだ。にも関わらず、いつの間にか川に入ることをしいられていた。

 川へ入っちゃいけないと言うのは白象の一番楽しかった頃のオツベルとの思いでなのだ。
 そう考えれば会話文でなく地の文であることの説明がつく。

 ならば、空欄には何が入るのか。

 それは「白」である。

 白象は白いから、きっとその愛称は「白」であったはずだ。
 それを最後の一文に唐突にぶち込んだに違いない。

 おや白、川へ入っちゃいけないったら。

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