飴だま
お侍様が子供達のために飴玉を二つに割ってくれる話
最初、お母さんはお侍を大変恐れていて、怒って斬りかかられないように、子供達にも静かにするように言い含めているが、一つしか無い飴玉まで子供が喧嘩して、刀を抜いたお侍が近づいていくる。
という、途中若干恐怖映画のような下りはあるもののほのぼの下はなしである。
しかし、このお侍飴玉を斬るのに、日本刀をを使うというのは何とも大胆である。
この話のテーマは人を見た目で判断してはいけないということなのだろう。けれども恐いものは恐いのである。
実際に刀を持った支配階級が身近にいる暮らしというのは、現代では経験できない。昔は日本刀のような凶器をもった存在がいたるところにいたわけで、そういうのをみなどう感じていたのだろうか。やはり触らぬ神に祟り無し、近づかないものだったのか。
今もアメリカでは銃を所持することができる。日本でよく聞くニュースなんかだと、乱射騒ぎが多そうだが、そんな場所で安全に暮らすことはできるのか。
きっとできるのだろう、アメリカ人は普通に暮らしているし、そういうものだと思えば慣れてしまうものなんだろう。
とは言っても、実際に凶器をもった人が目の前にいるのは恐いものである。まして子供が横にいたら警戒するのは当然だ。
もしかしたら、飴玉を割ってくれるだけかもしれないが、斬り殺されるかもしれない。何ともハイリスクな博打である。
いくら、人は見かけで判断してはいけないとは言っても、リスクは良く考えて行動する必要があるだろう。
たけのこ
何が驚きって、全てがひらがなで書かれていて大変読みにくい。しかし、全てひらがなでは読みにくと思ったのか、単語単語で区切れを入れられている。
それは こんな かんじの ぶんしょう になる。
内容はたけのこが母親の話を聞かないで、危険な外に出ていってしまい、笛にされてしまうというものだ。
しかし、このたけのこは笛になったことを喜んでいる。なぜなら、笛の音に誘われて外の出ていったらしく、笛のそれほど好きだったなら、笛になることができて本望だろうということだ。
しかし、たけのこが竹林の外に出るというのを竹目線で描いたわけだが、これは人間目線だったら、結構恐ろしい話である。
この恐ろしさ特に深い意味があるわけではなく、一般論としてのものだ。つまり、庭に竹が進出してくるということは、いずれ竹が家屋の下にも入ってきて、家の畳からたけのこが生えて来る危険性があるということだ。
竹と言うのはかなり危険な植物なんだそうだ。うちの庭ではどくだみが幅をきかせており、抜いても抜いても生えてくる。しかし、害としては臭いということぐらいだ。
それに対し竹は、物理的に破壊してくる。家の下から家を貫いて生えてくるのだ。しかも、地下茎でつながっているため、抜いてもまた生える。
もはや兵器の域である。
そんな竹にも色んな考えがきっとあるのだろう。という風に竹の気持ちになる切っ掛けをくれる作品ではあるが、やはり、家の近くに生えてくるのは勘弁して欲しい。
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