2017年5月2日火曜日

芥川龍之介の黒衣聖母

黒衣聖母


概要

芥川龍之介の短編
メリメ作『イールのヴィーナス』が典拠になっているらしいが、僕はそんな作品知らない。

あらすじ

 話は田代君が黒衣聖母を見せてくれたところから始まる。黒衣聖母と言うのは聖母マリア様を象った像なのだが、色が白ではなく黒のものである。そして、主人公である私がその黒衣聖母を不気味に思っていると、田代君がその黒衣聖母像にまつわる不気味な話を語りだす。
 少し前の富豪の家での話。祖母と姉、弟がいた。しかし、弟の体調が大変悪い。そこで、祖母は黒衣聖母に祈りを捧げる。この弟が死ぬと跡継ぎがいなくなる。すると家が潰れてしまうため、祖母の息が続く限り、弟の命を守って欲しいと。
 黒衣聖母はその願いを聞き入れたのか。弟の体調はみるみる良くなる。そして、それに安心した祖母は息を引き取ってしまう。すると弟の体調も急変し、祖母の後を追うように死んでしまう。
 つまり、祖母の息が続く限りは弟の命を守ったということなのだ。これが福転じて禍となす黒衣聖母像の伝説である。
 そして、黒衣聖母像の台座には『汝の祈祷、神々の定め給う所を動かすべしと望むなかれ』と書いてある。
 それを見て私は不気味に思うという話。

感想

 話としては悪魔に願った人のようなものである。願った事は叶うのだが思った形では叶わない。
 そもそも、祖母が何故自分が生きている限りなどという限定をつけたのかはよくわからない話である。どうせ願うのならば、孫を不老不死にして下さい。当然制限は付けずにとでも願えば良かったのでは無いだろうか。あまり大仰な願いにすると叶わないとでも思ったのだろう。謙虚は美徳と言われているが実際にはそうでもないことのほうが多そうだ。
 何でも交渉術を用いる際には先ず、相手に吹っかけてみて、それに対し相手がNOと言ってきた場合に交渉が始まるようだ。最初に相手にNOと言わせる事自体が交渉でのカードになる。つまり、もうすでに相手の意見を突っぱねたのだから、もう少し譲歩したら呑んでくれるだろうということだ。日本の車に関税をかける。とか言う無理難題を吹っかけてきてから、交渉を始めるというどこぞの国の外交政策にも似たところがある。
 なにはともあれ、このおばあさんは交渉のイロハを知らなかったばっかりに最初から要らぬ譲歩をしたがために、自分も孫も死ぬ羽目になった。
 しかし、待て。その交渉術は相手が意思表示をしてくる時でしか使いないだろうという意見が出てくる。確かに黒衣聖母像は話すことができないので、こちらの要求に対してYESもNOも言わない。弟を助けてくれ。と頼んでYESだったら良いが、もしNOだった場合にその状況を知るすべがなく、祈りは聞き届けられたと思って、実際は不履行なのを知らずに弟が死ぬ可能性もある。だから、最初から譲歩をして、確実に弟が助かるようにするべきだとも考えられる。
 しかし、ここで少し考えて欲しい。譲歩をすれば願いが叶う確率が高まるのか。そんな確信はどこにもない。何でも願えば叶うものでもない。ならば譲歩しさえすれば叶うのか。そんな保証もないし、そんな論理もない。そもそも、全知全能なる神の論理は人間には計り知れないだろう。だったら、最初から無手で自分の願いを願えばよかったのだ。ただ弟の命を救ってくれ。それだけで、よかったのだ。
 だが、相手は神ではなく黒衣聖母像。もしかしたら悪魔かも知れない。それでも矢張り、ただ祈ればよかったのだ。無駄に言葉を尽くすからこそ足を掬われる。沈黙は金とはよく言ったものだ。喋れば喋るほど政治家は失脚していく。人は話す失言製造機なのだ。だから、懸命な政治家のように黙って一言、弟を頼むと言っておけば後はきっと向こうで忖度してくれただろう。
 そも、ここまでは黒衣聖母像には願いを叶える力があるとして語ってきたが、偶然物事が重なっただけという風にも考えられる。
 まあ、この話自体は力があるかどうかではなく、ただ、神に祈って裏切られることがあるという驚きを表した話なのだろう。なので、偶然かどうかはそれほど重要ではなく、神に祈るという行為そのものの虚しさを示しているように思える。
 それはおいておいて、僕自身は謎の力はあると思っている。それは神の力があるということではなく、黒衣聖母像は何となく不気味というそこから受けるイメージの力に因るものだ。不気味な物に相対すると不気味な事が起きるような気がする。墓地が裏にあるとゾワゾワするのと同じだ。しかも、それが古いものであるなら、不気味だと思った人が身近な不気味な物事と結びつけ、その像自体の不気味さをエピソードを付け加えることによって増幅する。その増幅した不気味さを人に伝える時にも、以前よりも不気味な印象を与えるように人に伝える。なんといっても不気味なエピソードは段々増えるのだから、伝え聞くのが後になればなるほど、不気味さはます。そして、その不気味なイメージに侵食されたものはネガティブになり、あまり幸せなことにはならず、更に不気味なエピソードを像に追加していくことになる。という風に考えている。
 しかし、この台座に書いてある『汝の祈祷、神々の定め給う所を動かすべしと望むなかれ』というのもなかなか非道い話である。望む位良いでないか。大体、何を神々が定めているかもよくわからないのに、それに反することを望んでもいけない。だったら、祈る人なんていないだろうと思う。例えば救われない人がいて私を救って下さいと頼むのは禁止である。なぜなら救われないと決まっているのにそれに反することを望んではいけないからだ。逆に救われる人はどうか。望むまでもない。ならば誰が祈りを捧げるのか。これは運命は変えられないし変えたいと思ってはいけないということであろう。ある意味諦めが良くて個人的には好きな考え方だが、祈りを捧げたい者共にとってはなんともやりきれない文言だろう。
 結論は特には無いのだが、触らぬ神に祟り無し。矢張り、怪しいものに近づいてはいけない。それは例え神の名を冠していようと、自らの本能が警鐘を鳴らすものはきっと危険なものなのである。

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