いよいよグイン・サーガを読み始めてみた。
昔、アニメで見て興味は持っていたのだが、いざ読み始めるとなるとなかなかに勇気が必要であった。
というのもすでに141巻出ているからだ。一日一冊読んだとしても141日かかってしまうという超大作である。
しかし、141冊あるとは言っても人が一人で書いたものだ、きっと一冊一冊は内容が薄くてスルッと読めるだろうと浅慮な考えで読み始めることにしたのだ。
いやしかし、読んでみるとかなり、内容が濃い。
一番驚いたのはその世界観の作り込みの深さだ。そこら辺にある十把一絡げな作品と違い、そこにはグイン・サーガの世界があるのだ。
世界観の作り込みの凄さで私が脱帽したのは、比喩がその世界の物になっているということだ。ヤーンの神などというのは現実の世界には存在しない。その作中にしか存在しないにも関わらず、そのヤーンの神で物を例えるのだ。それでもその意味がわかるようになっているのが栗本薫の文章の凄さなのだろう。
内容も濃い。どっぷり別の世界に浸かることができて、現実を忘れてしまう。
2017年6月2日金曜日
2017年5月27日土曜日
赤川次郎の三毛猫ホームズの推理
三毛猫ホームズの推理はドラマにもなっていたし、聞いたことのある話ではあったが、なかなか読む機会が無かった。今回読んでみようと思ったのは、これだけ赤川次郎が沢山小説を書くことができる秘訣がこの中に入っているのではないかと考えたからだ。
私は知らなかったのだが、赤川次郎はコメディミステリの名手なのだそうだ。そういったジャンルがあったことすら、寡聞にして知らなかったのだが、たしかに、読んでみると大変軽妙で読みやすい。
小説は大抵地の文や心理描写が多いのに対して、この三毛猫ホームズの推理はセリフがとても多い。まるで、脚本のようだ。確かに、赤川次郎は脚本も書いていたようなので、恐らくそれとの絡みもあるのだろう。
読む前は赤川次郎は多作だから一作一作の内容は薄いだろうと思っていた。しかし、読んでみると、事件が起こる起こる。解決する前にこれでもかと事件が起きていくのだ。それらがどう解決するのかと気になって読み進めていると、いつの間にか本も後半に差し掛かり、一つ一つ解決するうちに物語が終わってしまう。
一つ一つの謎も良くできている。私は密室にそれほど造形が深いわけではないが、この作品に出てきた密室はよくできていたように思える。読んでいる間にその解決方法が分からなかった。読み終わった後に、なるほどなと感心した。
私は知らなかったのだが、赤川次郎はコメディミステリの名手なのだそうだ。そういったジャンルがあったことすら、寡聞にして知らなかったのだが、たしかに、読んでみると大変軽妙で読みやすい。
小説は大抵地の文や心理描写が多いのに対して、この三毛猫ホームズの推理はセリフがとても多い。まるで、脚本のようだ。確かに、赤川次郎は脚本も書いていたようなので、恐らくそれとの絡みもあるのだろう。
読む前は赤川次郎は多作だから一作一作の内容は薄いだろうと思っていた。しかし、読んでみると、事件が起こる起こる。解決する前にこれでもかと事件が起きていくのだ。それらがどう解決するのかと気になって読み進めていると、いつの間にか本も後半に差し掛かり、一つ一つ解決するうちに物語が終わってしまう。
一つ一つの謎も良くできている。私は密室にそれほど造形が深いわけではないが、この作品に出てきた密室はよくできていたように思える。読んでいる間にその解決方法が分からなかった。読み終わった後に、なるほどなと感心した。
2017年5月24日水曜日
芥川龍之介の猿蟹合戦
猿蟹合戦の後日談である。
シンデレラが結婚した後幸せになったのかと言うような話だ。
猿蟹合戦というと蟹が猿に復讐するというものだ。その後どうなったのか、蟹とその仲間たちは皆幸せに暮らしたのか。
実は皆捕まってしまったのだという。そりゃそうだ、なんせ殺人?殺猿をしてしまったのだから、これは罪は重い。捜査一課だって必至に捜査をして、犯人を割り出し、検事たちは死刑にしようと躍起になるに決っている。
そして、捕まった蟹は死刑となり、その他の仲間たちは無期懲役になってしまった。なんと可愛そうな、復習をしただけなのに。と、考えてしまうのは蟹を主人公に善悪のバイアスを掛けて話を読んでいたからだろう。
しかし、猿も悪いやつである。少なくとも青柿を蟹に投げて死に至らしめているのだから、その点に関しては罪に問われるべきだろう。傷害する意図があったかどうか分からない。と言うのはそうだとしても、結果として死に至らしめていたらそれはそれで、立派な犯罪だ。ここに猿を優遇する社会の働きが出ている。
ところで、この復讐劇というと、忠臣蔵を思い出す。この忠臣蔵のもととなった事件の赤穂事件では、討ち入りの後どうなったのだろうか。討ち入りを果たした浪士たちは全員切腹を命じられた。これは今で言う死刑と同じようにとってしまいがちだが、意味合いが違う。今で言う死刑は斬首である。この切腹は斬首と違って、浪士たちの誇りを考慮した結果になっているのだ。
つまり、日本では昔仇討ちを完全には否定しないというような文化があったことになる。
しかし、蟹は死罪になってしまったという。仇討ちは一切認められないという強い社会的な意志が感じられる。これは昔と比べて社会が変わってしまったということなのだろうか。
そして、最後の「君たちも大抵蟹なんですよ」という一文。これは仇討ちをしてはいけないという意味のものではない。裁判をすれば不利な立場に立つことになるというのをいっている。なぜなら、社会を作るのはいつだって頭がいい方である。ここで言うと猿が社会を作り出す正義なのだ。その正義に逆らってはいけない。蟹が猿に仕返しするためには猿よりも狡猾になり、社会を自分たちで変えていく必要がある。という赤い作品だったのでは無いだろうか。蟹だけに。
シンデレラが結婚した後幸せになったのかと言うような話だ。
猿蟹合戦というと蟹が猿に復讐するというものだ。その後どうなったのか、蟹とその仲間たちは皆幸せに暮らしたのか。
実は皆捕まってしまったのだという。そりゃそうだ、なんせ殺人?殺猿をしてしまったのだから、これは罪は重い。捜査一課だって必至に捜査をして、犯人を割り出し、検事たちは死刑にしようと躍起になるに決っている。
そして、捕まった蟹は死刑となり、その他の仲間たちは無期懲役になってしまった。なんと可愛そうな、復習をしただけなのに。と、考えてしまうのは蟹を主人公に善悪のバイアスを掛けて話を読んでいたからだろう。
しかし、猿も悪いやつである。少なくとも青柿を蟹に投げて死に至らしめているのだから、その点に関しては罪に問われるべきだろう。傷害する意図があったかどうか分からない。と言うのはそうだとしても、結果として死に至らしめていたらそれはそれで、立派な犯罪だ。ここに猿を優遇する社会の働きが出ている。
ところで、この復讐劇というと、忠臣蔵を思い出す。この忠臣蔵のもととなった事件の赤穂事件では、討ち入りの後どうなったのだろうか。討ち入りを果たした浪士たちは全員切腹を命じられた。これは今で言う死刑と同じようにとってしまいがちだが、意味合いが違う。今で言う死刑は斬首である。この切腹は斬首と違って、浪士たちの誇りを考慮した結果になっているのだ。
つまり、日本では昔仇討ちを完全には否定しないというような文化があったことになる。
しかし、蟹は死罪になってしまったという。仇討ちは一切認められないという強い社会的な意志が感じられる。これは昔と比べて社会が変わってしまったということなのだろうか。
そして、最後の「君たちも大抵蟹なんですよ」という一文。これは仇討ちをしてはいけないという意味のものではない。裁判をすれば不利な立場に立つことになるというのをいっている。なぜなら、社会を作るのはいつだって頭がいい方である。ここで言うと猿が社会を作り出す正義なのだ。その正義に逆らってはいけない。蟹が猿に仕返しするためには猿よりも狡猾になり、社会を自分たちで変えていく必要がある。という赤い作品だったのでは無いだろうか。蟹だけに。
2017年5月23日火曜日
泉鏡花の外科室
頑として麻酔をしないで手術を受けると言い張る女性の話。
ある種のミステリーである。
何故手術をするときに麻酔をしてはいけないのか。最初にその理由が気になり物語に惹かれる。誰かの遺言なのか、宗教上の理由か、それとも寝たら死ぬと思っているのか。
どうやら、彼女は麻酔で寝てしまったときに、言ってはいけないことを言ってしまうのではないかと不安に思っているのだ。不安に思っているというよりも、寧ろ確信しているといったほうが近い。寝てしまえば絶対に言ってしまうとまでに思い込んでいるのだ。
絶対に言えないこととはなんだろう。夫がその場にいて、夫に対して言えないことなのだろう事は分かる。しかし、夫に対して言えないことがあるのだと宣言するのは果たして正解なのか。
言えないことが何かは夫にわからなかったとしても、言えないことがあるというその事実だけで、夫婦間には不和が生まれるだろう。
寧ろ、なまじっか内容を知らないばかりに最悪の事を想像する可能性だってある。ここで言う最悪のこととは何かは分からない。これはその夫にとっての最悪のことである。例えば妻の不倫、借金、家柄等、その夫の価値観にとって最悪だと考えられる可能性を考えるに違いないのだ。
それでも、妻は言えないと言って、頑なに麻酔を拒む。
結局外科部長が手術を麻酔無しですることになり、腹を切り裂かれる。その際に痛みはあるが、外科部長に対してあなただから、と言うのだ。
どうやら、外科部長とこの夫人の間には何かがあるらしい。
ここで、第二部に行く。
この、第二部なのだが、結局は二人は昔あったことがあり、実は婦人も外科部長もお互いのことが好きになっていたという若かった頃の青い話なのだ。
一見昔好きだっただけで、お互い付き合ったことも無ければ肉体関係もない。何も問題は無いように思える。しかし、この婦人にとって、好きになったことがあるという、事実そのものが重要な意味を持っていたのだ。
人間隠れていれば何をしてもいいと、バレなければ何でもいいと思いがちだが、考えた時点で悪なのである。何とも哲学な話である。人に良くするときに見返りを期待するのは善ではないというのと同じだろう。
この好きになってしまっただけで、夫に言えないほどの罪を抱えたと考えた婦人の価値観というのは昔は普通だったのか。それともこの婦人独特の考え方なのか。
手術が終わって二人は同日に死んでしまう。それほどに二人の心は通じ合っていたのだ。肉体は通じ合っていなくても、精神が通じ合っていたら、それは罪にあたってしまうのか。
ある種のミステリーである。
何故手術をするときに麻酔をしてはいけないのか。最初にその理由が気になり物語に惹かれる。誰かの遺言なのか、宗教上の理由か、それとも寝たら死ぬと思っているのか。
どうやら、彼女は麻酔で寝てしまったときに、言ってはいけないことを言ってしまうのではないかと不安に思っているのだ。不安に思っているというよりも、寧ろ確信しているといったほうが近い。寝てしまえば絶対に言ってしまうとまでに思い込んでいるのだ。
絶対に言えないこととはなんだろう。夫がその場にいて、夫に対して言えないことなのだろう事は分かる。しかし、夫に対して言えないことがあるのだと宣言するのは果たして正解なのか。
言えないことが何かは夫にわからなかったとしても、言えないことがあるというその事実だけで、夫婦間には不和が生まれるだろう。
寧ろ、なまじっか内容を知らないばかりに最悪の事を想像する可能性だってある。ここで言う最悪のこととは何かは分からない。これはその夫にとっての最悪のことである。例えば妻の不倫、借金、家柄等、その夫の価値観にとって最悪だと考えられる可能性を考えるに違いないのだ。
それでも、妻は言えないと言って、頑なに麻酔を拒む。
結局外科部長が手術を麻酔無しですることになり、腹を切り裂かれる。その際に痛みはあるが、外科部長に対してあなただから、と言うのだ。
どうやら、外科部長とこの夫人の間には何かがあるらしい。
ここで、第二部に行く。
この、第二部なのだが、結局は二人は昔あったことがあり、実は婦人も外科部長もお互いのことが好きになっていたという若かった頃の青い話なのだ。
一見昔好きだっただけで、お互い付き合ったことも無ければ肉体関係もない。何も問題は無いように思える。しかし、この婦人にとって、好きになったことがあるという、事実そのものが重要な意味を持っていたのだ。
人間隠れていれば何をしてもいいと、バレなければ何でもいいと思いがちだが、考えた時点で悪なのである。何とも哲学な話である。人に良くするときに見返りを期待するのは善ではないというのと同じだろう。
この好きになってしまっただけで、夫に言えないほどの罪を抱えたと考えた婦人の価値観というのは昔は普通だったのか。それともこの婦人独特の考え方なのか。
手術が終わって二人は同日に死んでしまう。それほどに二人の心は通じ合っていたのだ。肉体は通じ合っていなくても、精神が通じ合っていたら、それは罪にあたってしまうのか。
2017年5月22日月曜日
夢野久作の懐中時計
懐中時計
半ページにも満たない短編。
懐中時計とネズミのはなし。
あらすじ
懐中時計が、チクタク動いていると、ネズミがやって来て、誰も見てないのに動いているのは馬鹿だという。
それに対し、懐中時計は誰も見てないのに動いているから、いつでも役立てる。人の見てない時、あるいは人の見ている時のみに動いているのはどちらも泥棒だと言う。
ネズミは恥ずかしくなって去ってしまう。
感想
誰も見てないのに動いているのは馬鹿なのだろうか、それとも泥棒なのだろうか。
これはいわゆる容量のいい人というのはどういうひとかという問題提起なのだろう。人が見ているときだけ、働いて。そうでない時はだらけている。上司にはごまを擦って、その他の人に対しては態度が違う。ぱっとみ嫌なやつだが、嫌なやつだからと言って泥棒であるとは限らない。嫌なやつは泥棒なのか。泥棒は嫌なやつだが、嫌な奴は泥棒とは言えない。十分条件と必要条件を思い出す。
懐中時計は働き者だ。人が見ていようがどうしようが、電池の続く限り動き続ける。しかし、これは働き者だからナノではなく、動いてないと時が分からなくなってしまうからだ。もし、時計が止まっていて、人が来たからと言って、急に動き出したとしても、時間調整をしなければ、時間は間違ったときから刻み始めてしまう。これは要領がいい云々以前にまず、労働者として失格だろう。
だから、懐中時計は自分の最低限の仕事をするために動いているとも言える。
もし、懐中時計が時間調節の機能も持っていたら、どうなるだろうか。人がいない時は止まっていて、人が来たら時間を調節して、正しい時を刻む事ができるようになる。これならば懐中時計はやろうという気にもなるだろう。
人間側から見たときにはそれは、サボっていて迷惑な奴に見えるのだろうか。いや、そもそも、人間の見えないところでサボっている前提なので、人間が迷惑と思うはずは無い。ならば懐中時計はいくらでもサボって問題がないのだ。
この懐中時計が愚直にもずっと働き続けなければならないの時間調節の機能を持っていない、つまり能力が不足しているからに他ならないのだ。
人が見ていないときに動くものが泥棒だというのはよく分かる。泥棒は人目を忍んで悪事をはたらくものだ。堂々としてるのは強盗である。
では人が見ているときにしか働かないのは泥棒なのか。これはよくわからない。賃金泥棒ということなのか。賃金を払っているのに、その上司が監督しているときしか働かず、他の時間はサボっているから賃金泥棒。そんな感じはする。
しかし、人に見せるのが仕事の懐中時計の場合はこれは当てはまらないのではないか。この懐中時計の仕事に人が見ていない時の行動は決められていない。あくまで、人に正しい時を見せるのが、この懐中時計の仕事なのであって、それさえ守っていれば、他の時間に賃金云々言われる筋合いは無いだろう。
しかし、そういった小賢しいことを考えさせないように、働かせるのが上司の役目ではある。
2017年5月21日日曜日
夢野久作のガチャガチャ、縊死体
ガチャガチャ
意地悪なやつが嫌な目に遭うという、勧善懲悪な話。
草の中で色々な虫が綺麗な音を出して、演奏会をしていた。それに感心した月はつゆを降らせて虫たちに報いていた。
しかし、轡虫が勝手にやって来て、ガチャガチャ音を立てて、演奏会を台無しにしてしまう。俺が、一番大きな音を立てられるという風に威張っていた轡虫だが、大きな音を立てたばっかりに、人間に捕らえられてしまうという話。
これは多分轡虫が悪いやつで、威張っていると悪いことが起きるという童話のようなものなのだろう。
しかし、轡虫の音がうるさいからと言って、かってに悪い虫にされては轡虫もたまったものではないだろう。
因みにこの轡虫という虫、私は知らなかったのだが、キリギリス科の昆虫なのだそうだ。
アリとキリギリスでもキリギリスは悪役になっていた。キリギリス科の虫というのは人間に嫌われがちなのだろうか。
それは置いておいて、このうるさいガチャガチャをという音を立てるから、悪い虫だというのは非常に人間目線の考え方だ。そもそも、この話は虫と月の話なのだから、虫と月から見てこのガチャガチャいう鳴き声がうるさいかどうかを考える必要があるのではないか。
虫は自分たちが奏でる音でいっぱいいっぱいで、他の虫の音なんて気にしてないだろう。仮に気にしていたとしても、それは、自分の音にかぶって邪魔だということだけで、嫌な音かどうかは関係なさそうだ。まあ、大きい音は邪魔かもしれないが。
月はどうかと考えると、うん届かない。まあ、こんな事言っても、詮無いことだ。
で、この美しいかどうかという基準はあくまで人間本位なのだが、それにしても、そのうるさいガチャガチャ音の轡虫を捕まえていく人間というのは一体どういう魂胆があるのだろうか。
うるさいものが好きなのだろうか。潰さないで籠に入れた点から考えて、うるさいから殺してやろうとは考えてなさそうだ。では何のためにもって帰るのか。これは虫なら何でもいいということだ。何でもいいからとにかく虫を捕まえて持って帰りたい。そのときに一番近くに大きな音を出しているのがいたから、持って帰る。
何という悪食。なんという大食漢
一番趣味の悪いのは人間だとしか思えない。
縊死体
最後に色々可能性を考えさせてくれる作品。
サイコパスな男が好きな女を殺して、その死体を縊死体のように見せかけて放置している。そして、その事が新聞記事になっていないかどうかを毎日確認する。ある日、あるきが新聞に載る。それを不審がって現場に行ってみると自分が首を縊っている。
何とも、良くわからないホラーな話だ。しかし、この時代にサイコパスを書いていたのは面白い。そもそも、何で殺したのかもよくわからないし、新聞を毎日見るのが、犯罪が明るみに出てほしくないのか、出てほしいのかもよくわからない。そして、極めつけは自分が首を縊っていた、というところだ。これはその男がそう見ただけなのか、それとも実際に自分が死んでいたのか。
想像の余地が非常に沢山の残されており、短編と言うのはこういった、完成させずに思考させる美学というのもあるのかと感心した。
2017年5月20日土曜日
新渡戸稲造の武士道の山
武士道の山というのがあるらしい。人はその山の頂上を目指して歩いていくのだが、その頂上に至るまでに四つ、頂上を入れて5つの人種がいるのだそうだ。
最初は野蛮人である。これは武士道の山の一番下。麓にいる者たちのことだ。彼らは野蛮で自分の本能に従って動くので、戦争の時は兵卒として真っ先に突っ込んでいくが、平時にはかなりの危険人物となる。
これは現代日本で言うなら、犯罪者たちのことだろう。罪を犯す人は何故その罪を犯すのか。本能に従ってその場で衝動的に何かを行ってしまうからだろう。これは確かに武士とは言えない。
次はもう少し山を登った所にいる人達。彼らは、本能のままに動く野蛮人ではない。しかし、威張るのだ。威張り散らすのだ。誰かれ構わず、威張る。自分より上の人にはそういった態度は取らないだろうが、本能のまま行動しないと言うだけで、全然尊敬に値しない野蛮人なのである。
彼らは現代社会でもよくいるだろう。何も知的好奇心を持たず、人に威張ることを生きがいにしている。コンビニで店員に偉ぶったりするのは彼らの常套手段なのだろう。
次は山の中腹である。山の中腹にはそれなりの知的好奇心をもった似非知識層がいる。三文小説しかよまず、知識も大して深くはないが、大言壮語し社会を語るのだそうだ。彼らは結構偉くなれるのだそうだが、やはり、上と下には態度が違う。
これらの人は会社でそれなりに偉くなっている人たちに多そうだ。知識は会社で学んだ分だけあるのだが、深く聞かれるとそれは分からない。
ここまで、聞いた分だと三種類とも何ともあまり見上げた者たちで内容に思える。これで後二種類で武士道の山を登りきることができるのか不安になる。
次の四種類目は、結構立派である。誰に対しても偉ぶること無く、目上の人に対しても自信を失わない。平等主義者は立派なものである。これはもう、頂上であるように思えるのだが、実はそうでは無いのだそうだ。
彼らの言葉は立派に聞こえるのだが、心に残らない。彼らが去っていってしまえばすぐにう忘れ去られてしまうというのだ。
真の武士道というのはキリストのような精神の事を言うらしい。その存在そのものが去ってしまってもその言葉、その人が生した事自体は残るような人が武士道の山の頂点にいるのだというのだ。
確かにキリストは死後蘇る。それは皆の心のなかに思想として蘇るということだから、まさに去ってからも残ることのある者が武士道であるという考えと合致している。
だが、私は武士道の山には更にその上があると考えている。それは、何も残せないということを知って尚、その人を支えようとする人である。いわゆる滅私の精神だと考えているのだが、例えば、キリストは死んでしまってからその思想が広まった、それは彼らの弟子たちがキリストの思想を広めたからに他ならない。
自分の思想を新たに考えるのではなく、キリストの考えを皆の心に残そうとするなんてのはなんて立派な心がけだろう。人々の記憶に残らなくても、関節的に世界に関わろうとする。その支える精神が六番目の武士道の山だと思う。
最初は野蛮人である。これは武士道の山の一番下。麓にいる者たちのことだ。彼らは野蛮で自分の本能に従って動くので、戦争の時は兵卒として真っ先に突っ込んでいくが、平時にはかなりの危険人物となる。
これは現代日本で言うなら、犯罪者たちのことだろう。罪を犯す人は何故その罪を犯すのか。本能に従ってその場で衝動的に何かを行ってしまうからだろう。これは確かに武士とは言えない。
次はもう少し山を登った所にいる人達。彼らは、本能のままに動く野蛮人ではない。しかし、威張るのだ。威張り散らすのだ。誰かれ構わず、威張る。自分より上の人にはそういった態度は取らないだろうが、本能のまま行動しないと言うだけで、全然尊敬に値しない野蛮人なのである。
彼らは現代社会でもよくいるだろう。何も知的好奇心を持たず、人に威張ることを生きがいにしている。コンビニで店員に偉ぶったりするのは彼らの常套手段なのだろう。
次は山の中腹である。山の中腹にはそれなりの知的好奇心をもった似非知識層がいる。三文小説しかよまず、知識も大して深くはないが、大言壮語し社会を語るのだそうだ。彼らは結構偉くなれるのだそうだが、やはり、上と下には態度が違う。
これらの人は会社でそれなりに偉くなっている人たちに多そうだ。知識は会社で学んだ分だけあるのだが、深く聞かれるとそれは分からない。
ここまで、聞いた分だと三種類とも何ともあまり見上げた者たちで内容に思える。これで後二種類で武士道の山を登りきることができるのか不安になる。
次の四種類目は、結構立派である。誰に対しても偉ぶること無く、目上の人に対しても自信を失わない。平等主義者は立派なものである。これはもう、頂上であるように思えるのだが、実はそうでは無いのだそうだ。
彼らの言葉は立派に聞こえるのだが、心に残らない。彼らが去っていってしまえばすぐにう忘れ去られてしまうというのだ。
真の武士道というのはキリストのような精神の事を言うらしい。その存在そのものが去ってしまってもその言葉、その人が生した事自体は残るような人が武士道の山の頂点にいるのだというのだ。
確かにキリストは死後蘇る。それは皆の心のなかに思想として蘇るということだから、まさに去ってからも残ることのある者が武士道であるという考えと合致している。
だが、私は武士道の山には更にその上があると考えている。それは、何も残せないということを知って尚、その人を支えようとする人である。いわゆる滅私の精神だと考えているのだが、例えば、キリストは死んでしまってからその思想が広まった、それは彼らの弟子たちがキリストの思想を広めたからに他ならない。
自分の思想を新たに考えるのではなく、キリストの考えを皆の心に残そうとするなんてのはなんて立派な心がけだろう。人々の記憶に残らなくても、関節的に世界に関わろうとする。その支える精神が六番目の武士道の山だと思う。
2017年5月19日金曜日
芥川龍之介の藪の中
真相は藪の中という言葉があるが、この話はその原点になった話である。
事の起こりはある一人に人死が出たことから始まる。
山で、一人の男性が死んだというのだ。それに対して、四人の証言と、三人の当事者の話が繰り広げられるというものである。この聞き手は検非違使だ。
山で死んだのは旦那、そこにいたのは妻と、盗人だという。大体の証言であってるだろうと思われる事は、盗人が、妻に惚れて、手篭めにする。そして、旦那は木に縛り付けられてしまう。その後盗人は旦那の持ち物と馬を持ち逃げしたということだ。
ここまではどの証言でも同じなのだが、誰が旦那を殺したかが、全員バラバラの事を言う。
ここでいう全員とは、盗人、旦那、妻の三人のことだ。
盗人は、旦那と決闘の末自分が殺したという。
妻は心中するつもりだったが、旦那を殺した後に後を負えなかったという。
旦那は妻の態度に絶望して自殺したのだという。
つまり三人が三人共自分が殺したのだと言いはるのだ。
ここで、殺された旦那が証言をしていることに疑問を覚えるだろう。確かにそこは謎めいているのだが、
これは霊媒師が呼んで証言をさせているのだそうだ。
死んだ人間に証言をさせることができたらなんと便利だろうか。現在でもできない技法を過去にできたということにすると言うのは面白い考え方である。
まあ、霊媒師に呼ばれて証言した旦那の話を信じていいかというのも、一つの議論にはなると思うが、ここでは、旦那も証言ができたということにしておく。
また、もう一つ考えておかねばならぬことは、本当に真相があるのかどうかということである。これは、芥川龍之介に聞いてみないことには分からない。私個人としては真相は無いのだろうと思っている
というのも、これだけ三者三様にバラバラの事を言っており、それしか、判断材料が無ければどうとでも取れるし、どれが真実とも誰が嘘をついているとも、考えることが可能になるからだ。
ここで、全員が自分が殺したと言い張っているのは何故かを考えてみる。大体よくある話としては誰かをかばうために自分がやったと言い張る可能性だ。これは十分に有り得る。全員が誰が殺したかわからないから、最悪の事態を防ぐために自分が殺したと言い張るのだ。
これが、一般にありそうな解答のように思えるが、私はあえてここで検非違使犯人説を唱えてみたい。
そう、旦那を殺したのは検非違使なのだ。検非違使が殺しているから、証言は好きなように変えられるし、何より霊媒師が呼んだという旦那の証言など自分で考えたい放題である。であればなぜ、検非違使はそんなことをしたのか。旦那に何か怨恨があるなら、盗人に罪を着せればいいだけである。
ならば何故三人別の証言にして真相をヤブの中にしようとしたのか。これはこの当時の犯人逮捕の方法に一石を投じようとしたに違いない。
こうやって霊媒で証言を得る方法は確実ではなく、徒に捜査を混乱させるだけだから、もっと科学的手法に基づいた論理的捜査をしようという、そういった働きかけを上層部にするためだったに違いないのだ。
事の起こりはある一人に人死が出たことから始まる。
山で、一人の男性が死んだというのだ。それに対して、四人の証言と、三人の当事者の話が繰り広げられるというものである。この聞き手は検非違使だ。
山で死んだのは旦那、そこにいたのは妻と、盗人だという。大体の証言であってるだろうと思われる事は、盗人が、妻に惚れて、手篭めにする。そして、旦那は木に縛り付けられてしまう。その後盗人は旦那の持ち物と馬を持ち逃げしたということだ。
ここまではどの証言でも同じなのだが、誰が旦那を殺したかが、全員バラバラの事を言う。
ここでいう全員とは、盗人、旦那、妻の三人のことだ。
盗人は、旦那と決闘の末自分が殺したという。
妻は心中するつもりだったが、旦那を殺した後に後を負えなかったという。
旦那は妻の態度に絶望して自殺したのだという。
つまり三人が三人共自分が殺したのだと言いはるのだ。
ここで、殺された旦那が証言をしていることに疑問を覚えるだろう。確かにそこは謎めいているのだが、
これは霊媒師が呼んで証言をさせているのだそうだ。
死んだ人間に証言をさせることができたらなんと便利だろうか。現在でもできない技法を過去にできたということにすると言うのは面白い考え方である。
まあ、霊媒師に呼ばれて証言した旦那の話を信じていいかというのも、一つの議論にはなると思うが、ここでは、旦那も証言ができたということにしておく。
また、もう一つ考えておかねばならぬことは、本当に真相があるのかどうかということである。これは、芥川龍之介に聞いてみないことには分からない。私個人としては真相は無いのだろうと思っている
というのも、これだけ三者三様にバラバラの事を言っており、それしか、判断材料が無ければどうとでも取れるし、どれが真実とも誰が嘘をついているとも、考えることが可能になるからだ。
ここで、全員が自分が殺したと言い張っているのは何故かを考えてみる。大体よくある話としては誰かをかばうために自分がやったと言い張る可能性だ。これは十分に有り得る。全員が誰が殺したかわからないから、最悪の事態を防ぐために自分が殺したと言い張るのだ。
これが、一般にありそうな解答のように思えるが、私はあえてここで検非違使犯人説を唱えてみたい。
そう、旦那を殺したのは検非違使なのだ。検非違使が殺しているから、証言は好きなように変えられるし、何より霊媒師が呼んだという旦那の証言など自分で考えたい放題である。であればなぜ、検非違使はそんなことをしたのか。旦那に何か怨恨があるなら、盗人に罪を着せればいいだけである。
ならば何故三人別の証言にして真相をヤブの中にしようとしたのか。これはこの当時の犯人逮捕の方法に一石を投じようとしたに違いない。
こうやって霊媒で証言を得る方法は確実ではなく、徒に捜査を混乱させるだけだから、もっと科学的手法に基づいた論理的捜査をしようという、そういった働きかけを上層部にするためだったに違いないのだ。
2017年5月18日木曜日
芥川龍之介の運
この運という作品は、神様に願掛けをし、運が良くなり、金が手に入った女性の話を聞いてどう思うかというものである。
おじいさんはこの話を聞いて、精神の充実が幸福だと考えるが、若者の方は物質の充実が幸福だと考えたようである。
この話に出てくる女性は、金運はあったが、男運が無かった。神様のお告げ通り出会った男性は、物取りでお上に捕まっていなくなってしまう。
それで、女性は泣くのだが、物取りの旦那が捕まったのはラッキーだったように思えて仕方がない。
この女性はもともと、日々暮らすのが大変で、それで神様に頼んでお金が持った入るようにして欲しいという願いをしたのだ。
ならばそれが叶えば万々歳ではないか。
しかし、老人はそうは思はない、やはり物質的な充足ではなく人対人の精神の充足が大切だというのだ。
しかし、金銭というのは物質的な充足だけでしか無く、精神の充足では無いのだろうか。お金だって、精神の充足足り得るのではないか。
お金が手に入ると嬉しい気持ちになる。これが、友人や恋人と一緒にいて嬉しい気持ちと何が違うというのか。
もともと、この女性は旦那も無ければ金も無いという、ナイナイ尽くしであった。それは母親がいなくなったのが原因であった。
つまり、母親がいなくなったと同時に精神的そして、物質的豊かさが失われてしまったということだ。
ならば精神も物質も両方ないのだから、どちらか1つでも手に入ればそれはありがたいことであるように思える。
もちろん両方あったほうが良いのは間違いない。しかし、両方願うのはなかなか、贅沢だとこの女性は考えたのだろう。
そして、どちらかを選ぶなら、先ずは衣食足りて礼節を知る、とあるように生きていくのに必要な物質を選ぶのは当然だ。
ならば、この女性は物質てき充足が得られたことを先ず、感謝するべきだと思う。
もし、金がなく、空にも困る状況で、精神の充足を先に必要だと考え、いい男性が目の前に現れたとする。しかし、食うに困っては何ともならないだろう。どんなに精神が充足しても、その前に胃袋を充足させたいと考えるはずである。
若者はまだ、先が長いから物質的充足を重視するのは分かる。物質的充足があれば、その後に精神の充足が来ると信じているのだ。
これは私がまだ、若いからそう思ってしまうだけなのだろうか。
老人は精神を充足させるべきだと考えているが、今の老人もそれが主流なのだろうか。現代の老人は昔に比べて、物質的充足と精神的充足が同じになってきているように思える。というのも今は介護の問題があるからだ。金があれば、いい介護施設に入れるし、親族に迷惑をかけずに済む。
しかし、カネがないと親族に介護を頼み、関係性が悪くなってしまう。
何とも地獄の沙汰も金次第である。
おじいさんはこの話を聞いて、精神の充実が幸福だと考えるが、若者の方は物質の充実が幸福だと考えたようである。
この話に出てくる女性は、金運はあったが、男運が無かった。神様のお告げ通り出会った男性は、物取りでお上に捕まっていなくなってしまう。
それで、女性は泣くのだが、物取りの旦那が捕まったのはラッキーだったように思えて仕方がない。
この女性はもともと、日々暮らすのが大変で、それで神様に頼んでお金が持った入るようにして欲しいという願いをしたのだ。
ならばそれが叶えば万々歳ではないか。
しかし、老人はそうは思はない、やはり物質的な充足ではなく人対人の精神の充足が大切だというのだ。
しかし、金銭というのは物質的な充足だけでしか無く、精神の充足では無いのだろうか。お金だって、精神の充足足り得るのではないか。
お金が手に入ると嬉しい気持ちになる。これが、友人や恋人と一緒にいて嬉しい気持ちと何が違うというのか。
もともと、この女性は旦那も無ければ金も無いという、ナイナイ尽くしであった。それは母親がいなくなったのが原因であった。
つまり、母親がいなくなったと同時に精神的そして、物質的豊かさが失われてしまったということだ。
ならば精神も物質も両方ないのだから、どちらか1つでも手に入ればそれはありがたいことであるように思える。
もちろん両方あったほうが良いのは間違いない。しかし、両方願うのはなかなか、贅沢だとこの女性は考えたのだろう。
そして、どちらかを選ぶなら、先ずは衣食足りて礼節を知る、とあるように生きていくのに必要な物質を選ぶのは当然だ。
ならば、この女性は物質てき充足が得られたことを先ず、感謝するべきだと思う。
もし、金がなく、空にも困る状況で、精神の充足を先に必要だと考え、いい男性が目の前に現れたとする。しかし、食うに困っては何ともならないだろう。どんなに精神が充足しても、その前に胃袋を充足させたいと考えるはずである。
若者はまだ、先が長いから物質的充足を重視するのは分かる。物質的充足があれば、その後に精神の充足が来ると信じているのだ。
これは私がまだ、若いからそう思ってしまうだけなのだろうか。
老人は精神を充足させるべきだと考えているが、今の老人もそれが主流なのだろうか。現代の老人は昔に比べて、物質的充足と精神的充足が同じになってきているように思える。というのも今は介護の問題があるからだ。金があれば、いい介護施設に入れるし、親族に迷惑をかけずに済む。
しかし、カネがないと親族に介護を頼み、関係性が悪くなってしまう。
何とも地獄の沙汰も金次第である。
2017年5月17日水曜日
太宰治の貨幣
貨幣は女性名詞であるらしい。貨幣が女性というのは聞いたことのない話であるが、一般に英語圏の女性名詞男性名詞という話から行くと女性名詞だということらしい。
女性名詞ということはとりあえずわかったが、貨幣が女性名詞だからと言って貨幣を女性に見立てて、女性の語り口調で、小説を書いていくというのは非常に面白い試みだ。
この主人公の女性、女性と入っても貨幣なのだが、百円の紙幣なのだそうだ。今では百円の紙幣などというものは存在しなく鳴ってしまったが、太宰治が生きていた頃にはまだ、百円の紙幣が存在したというのだから、随分とインフレに鳴ったものである。今では弐%の物価目標さえも達成できないでいるのに対し、昔はどういうレベルのインフレ率だったのだろうか。
まあ、そんなことは大して重要な事ではない。ここで重要なのはその百円の貨幣というのが最高額の紙幣だったということだろう。
今で言うところの一万円札のことなのだろう。今の一万円札は福沢諭吉で当然男なのだが、昔の百円は誰だったのだろうか。私の記憶では聖徳太子だったようなきがする。聖徳太子が百円の顔なのなら、女性か男性かでいうと当然男性であることからして、語りも男性であるべきであるかのように思えてしまうが、そうではなく、女生として、語っている。これは貨幣に書かれているのが男性か女性かが重要なのではなく、貨幣自体が女性名詞であるということが大事だったのだろう。
この百円紙幣。最高額の紙幣であるから、最初はお高く止まっている、しかし、次第二百円紙幣、千円紙幣などが現れて、最高額の紙幣であるという地位を追われてしまう。そのことを大変不満に思っているという紙幣の気持ちが書かれている。
他にもこの紙幣が思う所に因ると、人の手を渡り歩き、くしゃくしゃになっていくのは耐えられないらしい。とはいっても、紙幣である、ずっと同じ一人の元にいてそこを動かないというわけには行かない。
色んな所を転々とし、関東を離れ、また関東に戻ってきて、戦争を経験しその時時でのお金の使われ方をまさに当事者として見ているというのだ。
そう考えるとお金の目線というのは大変面白い。
こういった使われ方は嬉しいが、こういった使われ方は嬉しくないといった気持ちが芽生えるのだろうか。多分芽生えるのだろう。
お金に限らず、付喪神という考え方がある日本人にはこのお金が意志を持っているというのは非常に受け入れやすいと感じた。
女性名詞ということはとりあえずわかったが、貨幣が女性名詞だからと言って貨幣を女性に見立てて、女性の語り口調で、小説を書いていくというのは非常に面白い試みだ。
この主人公の女性、女性と入っても貨幣なのだが、百円の紙幣なのだそうだ。今では百円の紙幣などというものは存在しなく鳴ってしまったが、太宰治が生きていた頃にはまだ、百円の紙幣が存在したというのだから、随分とインフレに鳴ったものである。今では弐%の物価目標さえも達成できないでいるのに対し、昔はどういうレベルのインフレ率だったのだろうか。
まあ、そんなことは大して重要な事ではない。ここで重要なのはその百円の貨幣というのが最高額の紙幣だったということだろう。
今で言うところの一万円札のことなのだろう。今の一万円札は福沢諭吉で当然男なのだが、昔の百円は誰だったのだろうか。私の記憶では聖徳太子だったようなきがする。聖徳太子が百円の顔なのなら、女性か男性かでいうと当然男性であることからして、語りも男性であるべきであるかのように思えてしまうが、そうではなく、女生として、語っている。これは貨幣に書かれているのが男性か女性かが重要なのではなく、貨幣自体が女性名詞であるということが大事だったのだろう。
この百円紙幣。最高額の紙幣であるから、最初はお高く止まっている、しかし、次第二百円紙幣、千円紙幣などが現れて、最高額の紙幣であるという地位を追われてしまう。そのことを大変不満に思っているという紙幣の気持ちが書かれている。
他にもこの紙幣が思う所に因ると、人の手を渡り歩き、くしゃくしゃになっていくのは耐えられないらしい。とはいっても、紙幣である、ずっと同じ一人の元にいてそこを動かないというわけには行かない。
色んな所を転々とし、関東を離れ、また関東に戻ってきて、戦争を経験しその時時でのお金の使われ方をまさに当事者として見ているというのだ。
そう考えるとお金の目線というのは大変面白い。
こういった使われ方は嬉しいが、こういった使われ方は嬉しくないといった気持ちが芽生えるのだろうか。多分芽生えるのだろう。
お金に限らず、付喪神という考え方がある日本人にはこのお金が意志を持っているというのは非常に受け入れやすいと感じた。
2017年5月16日火曜日
梶井基次郎の櫻の樹の下には
櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
有名な都市伝説だが、梶井基次郎の小説が元になっていたのは知らなかった。
桜のあまりの美しさに不安を覚えるが、その下に屍体が埋まっていると考えれば、納得できるという分かるんだかわからないんだかな話なのだが、そのイメージだけは鮮烈に伝わってくるから面白い。
そもそも、この小説が書かれるまでは桜の木の下に屍体が埋まっているイメージは無かったようだ。桜というのはただ美しく、みんなで楽しく酒を飲む場所というそういった植物だったのだ。
これを一種の怪しい物に変えてしまったのだから、この本の影響力はすごい。
私のイメージでは、桜と言うのは美しいものでも、怪しいものでもなく、チャドクガの幼虫の毛虫が大繁殖する迷惑な木である。
風情もへったくれも無いのだが、これも桜の木の見方の一種では無いだろうか。これを中心に据えて小説を書いたら梶井基次郎程に評価してもらえないだろうか。いや、無いだろう。と適当に反語で締めておく。
まあ、私のイメージは蛇足だ。
江戸時代あたりから桜というのはみんなで花見に行く美しいものの象徴になっていたようだが、それ以前は必ずしも良いものとして見るものでは無かったらしい。
その昔は、桜というのは怪しいから避けて通るというものだったという。その、昔に忘れられてしまったイメージが梶井基次郎によって復活させられ、世間に広がったというのだから、やはり、桜というのはどことなく怪しげな雰囲気を持っていると言うのは明らかなのだろう。
しかし、美しい物を見たときに凄惨な事を想像しないと落ち着かないというのは何とも不思議な考え方である。
ただの気難しい天邪鬼であると考えることもできるが、まあ解らないでもない。
みんなが美しいというと、その反対の事を思い浮かべて悦に入りたい欲求というのがあるのだが、それのことなのだろうか。
今となっては桜の下に屍体が埋まっているのは万人の共通のイメージである用に思える。誰でも知っている都市伝説だ。
それでも、桜を見にいって花見をする。これはやはり単純に美しいからなのだろう。そこにその美しさを純粋に楽しまずに屍体がいるイメージを持って楽しんでいる人がいることもまた面白いことだ。
一つ何か事が起きても、ものの見方は皆違う。全員が同じ方向を向いて同じ方向に歩いて行かなければならないとしたら、それはもはや全体主義だ。
あれは美しいと言われたら。美しくないイメージを抱き、あれが正義だと、言われたら、それは実は悪だという考えを持つ。実に反権力反体制で結構なことだと思う。
有名な都市伝説だが、梶井基次郎の小説が元になっていたのは知らなかった。
桜のあまりの美しさに不安を覚えるが、その下に屍体が埋まっていると考えれば、納得できるという分かるんだかわからないんだかな話なのだが、そのイメージだけは鮮烈に伝わってくるから面白い。
そもそも、この小説が書かれるまでは桜の木の下に屍体が埋まっているイメージは無かったようだ。桜というのはただ美しく、みんなで楽しく酒を飲む場所というそういった植物だったのだ。
これを一種の怪しい物に変えてしまったのだから、この本の影響力はすごい。
私のイメージでは、桜と言うのは美しいものでも、怪しいものでもなく、チャドクガの幼虫の毛虫が大繁殖する迷惑な木である。
風情もへったくれも無いのだが、これも桜の木の見方の一種では無いだろうか。これを中心に据えて小説を書いたら梶井基次郎程に評価してもらえないだろうか。いや、無いだろう。と適当に反語で締めておく。
まあ、私のイメージは蛇足だ。
江戸時代あたりから桜というのはみんなで花見に行く美しいものの象徴になっていたようだが、それ以前は必ずしも良いものとして見るものでは無かったらしい。
その昔は、桜というのは怪しいから避けて通るというものだったという。その、昔に忘れられてしまったイメージが梶井基次郎によって復活させられ、世間に広がったというのだから、やはり、桜というのはどことなく怪しげな雰囲気を持っていると言うのは明らかなのだろう。
しかし、美しい物を見たときに凄惨な事を想像しないと落ち着かないというのは何とも不思議な考え方である。
ただの気難しい天邪鬼であると考えることもできるが、まあ解らないでもない。
みんなが美しいというと、その反対の事を思い浮かべて悦に入りたい欲求というのがあるのだが、それのことなのだろうか。
今となっては桜の下に屍体が埋まっているのは万人の共通のイメージである用に思える。誰でも知っている都市伝説だ。
それでも、桜を見にいって花見をする。これはやはり単純に美しいからなのだろう。そこにその美しさを純粋に楽しまずに屍体がいるイメージを持って楽しんでいる人がいることもまた面白いことだ。
一つ何か事が起きても、ものの見方は皆違う。全員が同じ方向を向いて同じ方向に歩いて行かなければならないとしたら、それはもはや全体主義だ。
あれは美しいと言われたら。美しくないイメージを抱き、あれが正義だと、言われたら、それは実は悪だという考えを持つ。実に反権力反体制で結構なことだと思う。
2017年5月15日月曜日
太宰治の満願
最初に読んだときは内容がよくわからなかった。
短編であるにも関わらず、話の本筋と関係の無いことが、最初の方に結構多く書いてあり、何の話なのかを掴むのに苦労した。
何でも太宰さんは怪我をしてお医者さんと仲良くなったのだそうだ。医者とは哲学の話をして盛り上がるそうで、原始二元論の話などをしたのだという。
てっきりここからお医者さんと何かが始まり、それは哲学に関係することなのかなと思ったのだが、この後にこの話は特に出てこない。
私からすると、何のための記述なのだかよくわからないのだが、きっと文学的には意味のあるものなのだろう。
この原始二元論のくだりで善玉悪玉の話が出てくる。ビールを飲ませてくれない奥さんは悪玉なのだそうだ。
そう言えな吾輩は猫であるで苦沙弥先生も単語に喜劇悲劇があると言うようなことを言っていたのを思い出した。
文学の人たちと言うのは物事を善悪悲喜で極端に分けて見たくなるものなのだろうかと、関係ないことを考えた。
ところで、重要なのはどうやら医者ではなく、医者の奥さんの方らしい。
また、この奥さんとは別に小学校の先生の奥さんも登場する。
この小学校の先生の奥さんが度々病院にやって来る。
この小学校の先生が体調が悪いのだ。
で、奥さんが来る度に医者は、もう少し辛抱するように言う。
この辛抱が何のことなのかよくわからなかった。
いや、何のことなのかは何となく分かっていたのだが、まさかそんなことは無いだろうと、今までの健全な話から勝手に判断していたのだ。
要は夜の営みを禁止されていたということなのだ。
最終的にはその制限が解除され、小学校の先生の奥さんはルンルンと家に帰っていく。
そして、それは医者の奥さんの差し金だというのだ。
実は男性よりも女性の方がエロいという話は度々聞くが、太宰もきっとそう思っていたのだろう。
医者の奥さんは小学校の先生の奥さんが夜の営みができないのを大変不憫に思っていた。というか、思っていただろうと太宰は推測していたのだ。
これは、今と昔で違うのかそれとも同じなのか気になるところである。何となくのイメージでは昔の女性は清楚で奥ゆかしいイメージが有る。その反対に祭りになると乱交パーティになってしまう程の貞操観念のないイメージもある。
まあ、地域の違いもあるのだろうが、何か昔と変わったのだろうか。
というかこの話で一番気になったのは医者の奥さんの差し金で夜の営みが解禁になったということである。そこは医者の判断じゃなくて良いのか?
お医者さんであるからには誰に言われたからとかじゃなく、自分の判断で決定を下してもらいたいところである。
2017年5月14日日曜日
新美南吉の童話集
飴だま
お侍様が子供達のために飴玉を二つに割ってくれる話
最初、お母さんはお侍を大変恐れていて、怒って斬りかかられないように、子供達にも静かにするように言い含めているが、一つしか無い飴玉まで子供が喧嘩して、刀を抜いたお侍が近づいていくる。
という、途中若干恐怖映画のような下りはあるもののほのぼの下はなしである。
しかし、このお侍飴玉を斬るのに、日本刀をを使うというのは何とも大胆である。
この話のテーマは人を見た目で判断してはいけないということなのだろう。けれども恐いものは恐いのである。
実際に刀を持った支配階級が身近にいる暮らしというのは、現代では経験できない。昔は日本刀のような凶器をもった存在がいたるところにいたわけで、そういうのをみなどう感じていたのだろうか。やはり触らぬ神に祟り無し、近づかないものだったのか。
今もアメリカでは銃を所持することができる。日本でよく聞くニュースなんかだと、乱射騒ぎが多そうだが、そんな場所で安全に暮らすことはできるのか。
きっとできるのだろう、アメリカ人は普通に暮らしているし、そういうものだと思えば慣れてしまうものなんだろう。
とは言っても、実際に凶器をもった人が目の前にいるのは恐いものである。まして子供が横にいたら警戒するのは当然だ。
もしかしたら、飴玉を割ってくれるだけかもしれないが、斬り殺されるかもしれない。何ともハイリスクな博打である。
いくら、人は見かけで判断してはいけないとは言っても、リスクは良く考えて行動する必要があるだろう。
たけのこ
何が驚きって、全てがひらがなで書かれていて大変読みにくい。しかし、全てひらがなでは読みにくと思ったのか、単語単語で区切れを入れられている。
それは こんな かんじの ぶんしょう になる。
内容はたけのこが母親の話を聞かないで、危険な外に出ていってしまい、笛にされてしまうというものだ。
しかし、このたけのこは笛になったことを喜んでいる。なぜなら、笛の音に誘われて外の出ていったらしく、笛のそれほど好きだったなら、笛になることができて本望だろうということだ。
しかし、たけのこが竹林の外に出るというのを竹目線で描いたわけだが、これは人間目線だったら、結構恐ろしい話である。
この恐ろしさ特に深い意味があるわけではなく、一般論としてのものだ。つまり、庭に竹が進出してくるということは、いずれ竹が家屋の下にも入ってきて、家の畳からたけのこが生えて来る危険性があるということだ。
竹と言うのはかなり危険な植物なんだそうだ。うちの庭ではどくだみが幅をきかせており、抜いても抜いても生えてくる。しかし、害としては臭いということぐらいだ。
それに対し竹は、物理的に破壊してくる。家の下から家を貫いて生えてくるのだ。しかも、地下茎でつながっているため、抜いてもまた生える。
もはや兵器の域である。
そんな竹にも色んな考えがきっとあるのだろう。という風に竹の気持ちになる切っ掛けをくれる作品ではあるが、やはり、家の近くに生えてくるのは勘弁して欲しい。
2017年5月13日土曜日
横光利一の蝿
蝿という作品は結局はみんな死んでしまう話である。
登場人物は7人
猫背の馭者と、農婦、男女、親子、田舎紳士である。
皆が皆それぞれの目的を胸に街を目指す。
しかし、馬車は道を外れて崖から落ちて皆死んでしまう。
死というものは全くいつ起こるか解らないものである。これは人生ではまさに真理であるが、物語に於いては全くかけているもののような気がする。
物語というと、プロットから話を作り始めるため、主人公がああしてこうして、最後はハッピーエンドと決まってしまう。
でも、本当は途中の車で事故にあって死んでしまう可能性だってある。しかし、物語はあまりにも予定調和に進み、予期せぬ自体というのは起きない。これは非常に残念なことである。
それの最たるものが主人公補正という現象なのだろう。主人公は神に愛されている。この場での神と言うのは造物主つまり作者のことなのだが、物語の中心に据えられたばっかりに、気軽に死ぬこともできない。
というよりも、事故や流れ弾で死ぬことがなくなる。しかし、実際には人は色んな死の可能性に囲まれている。
そこに現実世界との差が生じてしまう。
ああ、なんとリアリティのない話が多いことか。
西尾維新の戯言シリーズで思わせぶりに出てきたキャラクターがさっさと退場したことにスカッとした気持ちを感じたのはきっとそういった普段の、予定調和な物語のリアリティの無さに辟易していたからなのだろう。
かと言って、リアリティを求め続けても、物語は混沌としていってしまう。方向性がなくなってしまう。
最終的にはカタルシスを得られなければ物語としては問題がある。しかし、極めて主人公補正が強いと、あまりのリアリティの無さに途中でがっかりしてしまう。
この方向性とリアリティのバランスが物語を作る上で大切なことなのだろう。
後、この蝿という話で面白いのは、蝿との対比で描かれているところである。
先程登場人物は7人と言ったが、実はその他に蝿と馬がいる。
蝿以外は全員落っこちて死んでしまうが、蝿は生き残る。
最初の一文で呆気無く蜘蛛の巣に引っかかり、死にそうになっていた儚い命の蝿であるにも関わらず、羽があるため、馬車と一緒に落ちることは無かった。
まあ、もし落ちたとしても軽いから死にはしないのだろうが。
この話は蝿がいなくても十分に成立する話である。にも関わらず、蝿がいるだけでこんなにも内容が芳醇なものになる。
対比の構造というのはなんと面白いものか。
死ぬものを出したら、死なないものも出す。何とも漢文のようだ。
漢文の場合は例を前半で出してから、その教訓を今活かすとしたらどうするかという構造になるのだが、何にしろ構造として二つ作ると見比べることができて、考えるきっかけを与えてくれることになる。
もっと、リアリティのある対比構造の物語が見たいものだ。
登場人物は7人
猫背の馭者と、農婦、男女、親子、田舎紳士である。
皆が皆それぞれの目的を胸に街を目指す。
しかし、馬車は道を外れて崖から落ちて皆死んでしまう。
死というものは全くいつ起こるか解らないものである。これは人生ではまさに真理であるが、物語に於いては全くかけているもののような気がする。
物語というと、プロットから話を作り始めるため、主人公がああしてこうして、最後はハッピーエンドと決まってしまう。
でも、本当は途中の車で事故にあって死んでしまう可能性だってある。しかし、物語はあまりにも予定調和に進み、予期せぬ自体というのは起きない。これは非常に残念なことである。
それの最たるものが主人公補正という現象なのだろう。主人公は神に愛されている。この場での神と言うのは造物主つまり作者のことなのだが、物語の中心に据えられたばっかりに、気軽に死ぬこともできない。
というよりも、事故や流れ弾で死ぬことがなくなる。しかし、実際には人は色んな死の可能性に囲まれている。
そこに現実世界との差が生じてしまう。
ああ、なんとリアリティのない話が多いことか。
西尾維新の戯言シリーズで思わせぶりに出てきたキャラクターがさっさと退場したことにスカッとした気持ちを感じたのはきっとそういった普段の、予定調和な物語のリアリティの無さに辟易していたからなのだろう。
かと言って、リアリティを求め続けても、物語は混沌としていってしまう。方向性がなくなってしまう。
最終的にはカタルシスを得られなければ物語としては問題がある。しかし、極めて主人公補正が強いと、あまりのリアリティの無さに途中でがっかりしてしまう。
この方向性とリアリティのバランスが物語を作る上で大切なことなのだろう。
後、この蝿という話で面白いのは、蝿との対比で描かれているところである。
先程登場人物は7人と言ったが、実はその他に蝿と馬がいる。
蝿以外は全員落っこちて死んでしまうが、蝿は生き残る。
最初の一文で呆気無く蜘蛛の巣に引っかかり、死にそうになっていた儚い命の蝿であるにも関わらず、羽があるため、馬車と一緒に落ちることは無かった。
まあ、もし落ちたとしても軽いから死にはしないのだろうが。
この話は蝿がいなくても十分に成立する話である。にも関わらず、蝿がいるだけでこんなにも内容が芳醇なものになる。
対比の構造というのはなんと面白いものか。
死ぬものを出したら、死なないものも出す。何とも漢文のようだ。
漢文の場合は例を前半で出してから、その教訓を今活かすとしたらどうするかという構造になるのだが、何にしろ構造として二つ作ると見比べることができて、考えるきっかけを与えてくれることになる。
もっと、リアリティのある対比構造の物語が見たいものだ。
2017年5月12日金曜日
芥川龍之介の煙草と悪魔
煙草が日本に入ってきたのはポルトガル人やスペイン人のせいではなく、悪魔のせいなのではないかという異説を物語にした。
これはそもそも煙草を悪いものとした前提での話であり、かけに負けた牛飼いが、魂は盗られなかった代わりに煙草を日本全国に広めることにってしまい、誘惑に勝ったと思った瞬間にもう負けてるのではないかという、皮肉な話である。
最初に述べておくが、私自体は煙草は吸わないし、煙草を吸ったこともないので、それが果たして美味しいものなのか不味いものなのかは知らない。
ところで、この話で、悪魔は煙草の栽培をするのだが、悪魔というのは畑で植物を育てたりする事があるのだろうか。
私のイメージでは悪魔というのはそういった、マメなことはせず、もっと即物的な行動を取るようなきがする。
今回の煙草で云うならば、種を放り投げて、生えたら儲けものだぐらいに思いながら高みの見物をしているのではないかと思う。
それでも、悪魔が煙草の栽培をするのは、意外にも耕作が好きだからなのか、それとも煙草がとても好きだからなのか、あるいは、人間に害を及ぼすためならば労を惜しまないということなのか。
私は、これは、悪魔が自分で吸うために煙草を栽培しているのだと思う。遠く海外からやって来て、酒はあるようだが、煙草はない。
ニコチンを吸いたくなった悪魔は、頑張って煙草の栽培をして、自分で使うのだ。
だが、もし私が悪魔なら、煙草の栽培なんて面倒なことは自分ではやらない。誰かをそそのかして任せてしまう。
栽培というのは結構力仕事だし、目が出るまでは毎日水を上げなければならない。それに、畑を耕すのだって重労働だ。
できることならば自分ではやりたくない。
私でさえこう思うのなら、況んや悪魔をや。といったところだろう。
一緒に船に乗ってきた者の中には煙草を吸いたい者だっていたはずだ。そいつに耳打ちする
「ここに煙草の種があるんだが、育てて吸わないか」
すると、煙草を吸いたいやつは勝手に煙草を育ててくれて、悪魔もその煙草を吸うことができる。
なんとも猿蟹合戦のうような話になってきた。
よくよく考えるとあの猿はとんでもないやつだった。人に柿を育てるだけ育てさせて、実ったら勝手に取りに来て、さらにはカニに柿を投げつけて殺してしまうのだから。
悪魔よりもよっぽど悪魔的である。
まあ、何はともあれ悪魔が煙草を作ったら、それを広めなければならない。しかし、そこで、こんな賭け事をする必要があったのだろうか。
ただ、煙草を渡してしまえば良かったのでは無いだろうか。
それだと魂をもらえる可能性がなくなるから、わざわざ賭け事形式にしたのだろうか。
私が悪魔なら、煙草ができたら、それを近隣の人々に配る。そして、先ずはニコチンの中毒者を量産する。
そこからは、煙草と引き換えに魂を交換していくのだ。こうすれば、ニコチンの魔力に囚われた人々から大量の魂を奪うことができる。
しかし、これでは日本中に煙草が広がらないと思うかもしれない。
だが、大丈夫。儲かるもののところにははしっこいものがいつでも、すぐにやっているものだ。
さっさと、煙草の種ないし苗を盗み色々なところで栽培を始めることだろう。
これはそもそも煙草を悪いものとした前提での話であり、かけに負けた牛飼いが、魂は盗られなかった代わりに煙草を日本全国に広めることにってしまい、誘惑に勝ったと思った瞬間にもう負けてるのではないかという、皮肉な話である。
最初に述べておくが、私自体は煙草は吸わないし、煙草を吸ったこともないので、それが果たして美味しいものなのか不味いものなのかは知らない。
ところで、この話で、悪魔は煙草の栽培をするのだが、悪魔というのは畑で植物を育てたりする事があるのだろうか。
私のイメージでは悪魔というのはそういった、マメなことはせず、もっと即物的な行動を取るようなきがする。
今回の煙草で云うならば、種を放り投げて、生えたら儲けものだぐらいに思いながら高みの見物をしているのではないかと思う。
それでも、悪魔が煙草の栽培をするのは、意外にも耕作が好きだからなのか、それとも煙草がとても好きだからなのか、あるいは、人間に害を及ぼすためならば労を惜しまないということなのか。
私は、これは、悪魔が自分で吸うために煙草を栽培しているのだと思う。遠く海外からやって来て、酒はあるようだが、煙草はない。
ニコチンを吸いたくなった悪魔は、頑張って煙草の栽培をして、自分で使うのだ。
だが、もし私が悪魔なら、煙草の栽培なんて面倒なことは自分ではやらない。誰かをそそのかして任せてしまう。
栽培というのは結構力仕事だし、目が出るまでは毎日水を上げなければならない。それに、畑を耕すのだって重労働だ。
できることならば自分ではやりたくない。
私でさえこう思うのなら、況んや悪魔をや。といったところだろう。
一緒に船に乗ってきた者の中には煙草を吸いたい者だっていたはずだ。そいつに耳打ちする
「ここに煙草の種があるんだが、育てて吸わないか」
すると、煙草を吸いたいやつは勝手に煙草を育ててくれて、悪魔もその煙草を吸うことができる。
なんとも猿蟹合戦のうような話になってきた。
よくよく考えるとあの猿はとんでもないやつだった。人に柿を育てるだけ育てさせて、実ったら勝手に取りに来て、さらにはカニに柿を投げつけて殺してしまうのだから。
悪魔よりもよっぽど悪魔的である。
まあ、何はともあれ悪魔が煙草を作ったら、それを広めなければならない。しかし、そこで、こんな賭け事をする必要があったのだろうか。
ただ、煙草を渡してしまえば良かったのでは無いだろうか。
それだと魂をもらえる可能性がなくなるから、わざわざ賭け事形式にしたのだろうか。
私が悪魔なら、煙草ができたら、それを近隣の人々に配る。そして、先ずはニコチンの中毒者を量産する。
そこからは、煙草と引き換えに魂を交換していくのだ。こうすれば、ニコチンの魔力に囚われた人々から大量の魂を奪うことができる。
しかし、これでは日本中に煙草が広がらないと思うかもしれない。
だが、大丈夫。儲かるもののところにははしっこいものがいつでも、すぐにやっているものだ。
さっさと、煙草の種ないし苗を盗み色々なところで栽培を始めることだろう。
2017年5月11日木曜日
宮沢賢治のオツベルと象
オツベルと象と聞いて最初にワンダと巨像を思い出した。
まあ、言葉の響きだけで関係は無いのだけれど。
この話はプロレタリア文学のようなもので、オツベルという悪徳経営者に使い倒される、象の話である。
一般にブラック企業の比喩として考えられているようだが、そうすると、良くわからない部分がある。
それは、何故かオツベルが最初象を恐れていることだ。
ブラック企業の社長がオツベルだとするならば、何故新しくやって来て働こうとする人を恐れる事があるのだろうか。
これから搾取する相手を見たら、ほくそ笑むのが関の山だと思う。
矢張り、海千山千の経営者のオツベルといえども、象の事は恐ろしいのだろうか。
それは、新入社員でも大きな者には最初恐怖を覚えるということなのか。
私はそうは思わない。オツベルが新入社員を恐れるはずが無いのだ。そして、新入社員ならば人間であるはずだ。
今までの人間ではなく象が働き出したというのがポイントなのだ。
これは恐らく、今まで手を出していなかった大きな力に手を出し始めたということを示唆している。
例えば、新たな機械を使い始めた、何かの組織に接近し始めた。あるいは政治家との癒着を始めたとかでもいいかもしれない。
とにかく、オツベルは今まで使っていなかった大きな力を使い始めたのだ。最初はそれに恐れもする。しかし、段々とその感覚が麻痺していく。
手枷足枷をつけることで、自分はそれを制御できているのだと慢心するようになる。
しかし、最後それは反転してしまう。制御なんてのはできていなかったのだ、オツベルは怒ったゾウたちによって踏み潰されてしまう。
象を中心に考えるとたしかに、ブラック企業の社長に食いつぶされる侵入社員のように見える。
しかし、オツベルを中心に考えると、自分の器に収まらない物に手を出した、例えば原子力発電をして、万が一の事故などありえないように、細心の注意を払っていたと言い張る東京電力のように見える。
しかし、だとすると、その原発が赤い目で見たり、神に祈ったりととても、ものとはいえないような人間味を持っていることがおかしい、という風に疑問を持つかもしれない。
だが、何もおかしな事など無い、ものだって、長年使っていれば疲弊してくる。それは者に限らず、システムだってそうだ。
オツベルは象が赤い目で睨んでいたことに気付いていたのだろうか。
きっと、気付いてい無かっただろう。喜んで仕事をしている象の気持ちも分からず、ビクビクしていたようなオツベルが、象の発する危険信号に気づくはずがない。
バブルが弾けるときだって、きっと四方八方から赤い目で日本を睨むものがあったはずだ。しかし、殆どの人はそれに気づかない。象の群れの報復が来たときに気づくのだ。
鉛玉など意味がない。謝罪なんてのも意味は無い。もう後は流されてしまうだけなのだ。
そして、象は寂しい顔をして笑う。一つの時代の終わりには皆、さびしい顔をして笑うしか無いのだ。
そして、最後の一文
おや□、川へ入っちゃいけないったら。
誰が誰に言った言葉なのか。
可能性としては、牛飼い、牛、オツベル、白象、その他の象、月、赤衣の童子、百姓しかない。
一般的には牛飼いが牛にいっているというのが通説らしい。まあ、会話文でなく、地の文で書いている辺り、語り部の言葉なのだろう。
しかし、あえて私は、オツベルが白象に言ったことを、白象が思いだしている、と考える。
白象は川で水くみをさせられていた。しかし、最初はそんな仕事は無かったのである。きっと、オツベルは最初は白象に優しく、川へ入ってはいけないと言っていたのだ。にも関わらず、いつの間にか川に入ることをしいられていた。
川へ入っちゃいけないと言うのは白象の一番楽しかった頃のオツベルとの思いでなのだ。
そう考えれば会話文でなく地の文であることの説明がつく。
ならば、空欄には何が入るのか。
それは「白」である。
白象は白いから、きっとその愛称は「白」であったはずだ。
それを最後の一文に唐突にぶち込んだに違いない。
おや白、川へ入っちゃいけないったら。
2017年5月10日水曜日
新渡戸稲造の「死」の問題に対して
あらすじ
あの武士道で有名な新渡戸稲造が死について語っている評論である。
死に対してどう思っているかによって、その人が凡人であるか一角の人であるかが分かる。
死の価値は生によって定められる。そして生の価値を定めるのは義務であるから、死を軽んじると言うのは義務を軽んじるのと同じである。
己のなすべき義務をなせないで死ぬのを恐れないのは、熊や動物などと同じなのだ。
また、死と言うのは生の一段回である。なぜなら、忘れられさえしなければ死んだとはいえないからだ。これはキリストの死などの事を指している。
そして、死ぬときはドラマチックに死ぬよりも、生も死も同じように、何も変わらない風である事が一番エライのでは無いかと考えている。
感想
確かに、死というのは絶対人が通るため、一生のうちに避けては通れない課題である。この全員通る物をどう考えるかで人が分かると言うのは、まさしくその通りだと思う。
死を当然の物と考えるか、嫌なものと考えるか。本棚にどんな本があるのかを聞くのと同じくらいその人の人間性が垣間見えるのだろう。
死はまだ遠いものではあるが、いつかは通るものとしてある種諦めを込めて私は考えている。
ところで、この評論を読んで一番面白いと思ったのは、死は生によって定められ、生は義務によって定められるというところである。
死に様と生き様が表裏一体なのは何となく分かる。生にしがみついている人は死を恐れるし、生に諦観を持っている人は死をなんとも思わない。これは分かる。
しかし、生は義務によって定められると言うのは一体どういうことなのだろうか。
義務。国民の三大義務は教育、勤労、納税である。義務というのはこのことを指しているのだろうか。
いやこういう政治的、憲法的なことでは無いだろう。
ならば何か。恐らく、人生を通してなすべきことのことをいっている。
自分の人生を通してしなければいけないこと、それは義務なのか。それを怠ると、どうなるのか。義務では無く、生きる目的のことでは無いのか。
色々疑問点は出てくる。
例えば、相続で食べて生きてく人は義務を放棄しているのか、それとも財産を開放していく事自体がその人の義務なのか。
これは人生に義務があると、考えるとよくわからなくなる。人生とはもっと自由でいいのだ。きっと、時代が違うからこういう考え方になるのだろう。
しかし、この自由というのも曲者だ。義務ではなく自由。だからこそ逆に迷ってしまう。
何でも自由ならば死んでもいいではないか。なんとも現代人の好きそうな考え方だ。寧ろ昔のように士農工商で義務を仕事を与えられていたほうが、人はイキイキできたのかもsれない。
2017年5月9日火曜日
横光利一の笑われた子
まっすぐには描かれていないため、わかりにくいところがある話だった。
主人公の吉の親は吉が将来なになるべきかを毎日話し合っている。すると、それが夢に出てくる。
大きな顔が吉を笑っているという観念的な夢である。
その次の日先生に三度叱られ、その吉の事を笑った顔を木彫りすることにする。
それが、親にバレる。吉はそれを見せるのを大層嫌がり、拒絶するも、結局は見られてしまう。
そして、親の勧めで下駄屋になる。
25年経って貧乏な下駄屋である吉は自分の彫った、笑う顔に腹が立つ。
「お前のせいで下駄屋になった」と
下駄を叩き割った吉は、その材木でいい下駄が作れる気がした。
あらすじ
主人公の吉の親は吉が将来なになるべきかを毎日話し合っている。すると、それが夢に出てくる。
大きな顔が吉を笑っているという観念的な夢である。
その次の日先生に三度叱られ、その吉の事を笑った顔を木彫りすることにする。
それが、親にバレる。吉はそれを見せるのを大層嫌がり、拒絶するも、結局は見られてしまう。
そして、親の勧めで下駄屋になる。
25年経って貧乏な下駄屋である吉は自分の彫った、笑う顔に腹が立つ。
「お前のせいで下駄屋になった」と
下駄を叩き割った吉は、その材木でいい下駄が作れる気がした。
感想
自分の将来が勝手に決められてしまうという恐怖が夢にまで出てきて、そのストレスのはけ口として自分の意志でやった木彫りすらも、親によって将来を決める判断材料にされてしまうという話なのだろう。
大きな笑う顔が夢に出てくると言うのはよく分かる。自分の漠然とした恐怖を寝てる間に整理しようという頭の働きがきっとそうさせるのだろう。
しかし、面白いのはそれを木彫りすることで、固定してみようと思った心の動きである。
木彫りをするまでに吉は三度先生に怒られている。
一度目は算数
二度目は習字
三度目は礼
これは吉の苦手なことなのだろう。
数字に弱く、字に弱く、他人との関わりにも弱い。
これで、吉は増々将来への不安を高めた。
これにより、夢の顔を彫ることにする。自分の不安を形にすれば何かが変わるないし、分かると思ったのかもしれない。
そして、何より大事なことはこれが吉自身の自由意志で行われたことであるということだ。
結果、下駄屋にさせられてしまう。
自分の考えで行ったことを勝手に踏まえられて、自分の人生を決められる。なんとも皮肉な感じがする。
しかし、吉は本当は何に成りたかったのだろうか。
木彫りを勝手に始めたからには、矢張り木を彫るのはやりたいことだったのでは無いだろうか。
それも早計だ。何か一つやったことで自分という存在を規定される。一事が万事というわけだ。
吉の親はずっと吉と暮らしていたにも関わらず、吉の気持ちも考えずに将来を考え、一つ判断材料ができたらそれに飛びつく。
なんとも短絡的だ。子供のことを何も見ていなかったようなものである。
それで、25年下駄屋を続ける吉も吉な気はするが。結局下駄を割って何が変わったのだろうか。
自分の後生大事にしていたきっかけを割ることで、過去と決別できたのか。
割れた木材をみて下駄の事を考えている時点で下駄屋は向いている用にも見えるが、矢張り自分の人生を決められるのは噴飯モノなのだろう。
まして、それで貧乏とくればなおさらだ。
2017年5月7日日曜日
葉山嘉樹のセメントの樽の中の手紙
プロレタリア文学である。
プロレタリア文学というと小林多喜二の蟹工船が、真っ先に思い出されるが、このセメントの中の樽もまさにプロレタリアの悲哀を書いた作品である。
松戸与三はセメントあけをしている職人である。彼も他の労働者の例に漏れず、非常に過酷で長い労働を行っていた。
どれほど忙しいかというと、十一時間働きながら、鼻をかく時間も無いほどである。
それでいて給金はすこぶる悪い。酒も思い通りに飲むことがままならない金額なのである。
そんな不満を抱えながらも家族のために働く与三はある日、セメント樽の中から手紙を発見する。
手紙の内容は、セメント詰めをしている女性からのもので、何でも彼氏が事故によって破砕機に巻き込まれ、セメントの一部になってしまったのだそうだ。
彼女はそれを悲しみ、自分の彼氏が含まれたセメントがどこでどのように使われるか知りたいから、これを読んだ人は手紙の返事を書いて欲しいというのである。
与三はこれを読み、へべれけに酔っ払って大暴れをしたい気分になったが、そんなことをしたら子供はどうなると細君に攻められ、子供の事を見た。
という話なのだが、なんともこの時代の労働者は大変そうである。まあ、今もブラック企業などというものが大手を振って往来を闊歩しているけれども、昔ほど堂々と人権的に非道いことはしていないだろう。
たまに、暴露本でマックに卸す食肉加工が重労働で、死者も出るという話があるくらいなので、今がどれほど改善されているのかは、そんなに確実に分かることではないが。
それにしても、自分も同じような労働をしている中で、彼氏がセメントになった話を聞かされた与三の気持ちというのはどんなものだったのだろうか。
まあ、へべれけに酔いたくなる気持ちも分かる。なんせ明日は我が身だからである。いづれ自分もセメントになるないし、似たようなことになるだろう、と思いながら人生を生きると言うのはさぞ辛いことだろう。
パンドラの箱の一番奥には未来が残っていたというが、この予知の能力が最大の絶望を与えるというのもあながち間違いでは無いだろう。
これは今の労働者にも言えることだ。ブッラク企業に努めている人のみではなく、大体、大人達を見ていれば自分が将来どうなるのかは想像がついてしまう。これはセメントになることは無くても、絶望加減としては同じようなものだろう。
そんな与三の絶望を止めるのは、こどもである。自分が自暴自棄に成ったら、子供達が露頭に迷う。ならば自制しようという気になったのだろう。
矢張り、最後に自分を思いとどまらせるのは守るものがあることなのだろう。いや、主人公は偉い。
プロレタリア文学というと小林多喜二の蟹工船が、真っ先に思い出されるが、このセメントの中の樽もまさにプロレタリアの悲哀を書いた作品である。
松戸与三はセメントあけをしている職人である。彼も他の労働者の例に漏れず、非常に過酷で長い労働を行っていた。
どれほど忙しいかというと、十一時間働きながら、鼻をかく時間も無いほどである。
それでいて給金はすこぶる悪い。酒も思い通りに飲むことがままならない金額なのである。
そんな不満を抱えながらも家族のために働く与三はある日、セメント樽の中から手紙を発見する。
手紙の内容は、セメント詰めをしている女性からのもので、何でも彼氏が事故によって破砕機に巻き込まれ、セメントの一部になってしまったのだそうだ。
彼女はそれを悲しみ、自分の彼氏が含まれたセメントがどこでどのように使われるか知りたいから、これを読んだ人は手紙の返事を書いて欲しいというのである。
与三はこれを読み、へべれけに酔っ払って大暴れをしたい気分になったが、そんなことをしたら子供はどうなると細君に攻められ、子供の事を見た。
という話なのだが、なんともこの時代の労働者は大変そうである。まあ、今もブラック企業などというものが大手を振って往来を闊歩しているけれども、昔ほど堂々と人権的に非道いことはしていないだろう。
たまに、暴露本でマックに卸す食肉加工が重労働で、死者も出るという話があるくらいなので、今がどれほど改善されているのかは、そんなに確実に分かることではないが。
それにしても、自分も同じような労働をしている中で、彼氏がセメントになった話を聞かされた与三の気持ちというのはどんなものだったのだろうか。
まあ、へべれけに酔いたくなる気持ちも分かる。なんせ明日は我が身だからである。いづれ自分もセメントになるないし、似たようなことになるだろう、と思いながら人生を生きると言うのはさぞ辛いことだろう。
パンドラの箱の一番奥には未来が残っていたというが、この予知の能力が最大の絶望を与えるというのもあながち間違いでは無いだろう。
これは今の労働者にも言えることだ。ブッラク企業に努めている人のみではなく、大体、大人達を見ていれば自分が将来どうなるのかは想像がついてしまう。これはセメントになることは無くても、絶望加減としては同じようなものだろう。
そんな与三の絶望を止めるのは、こどもである。自分が自暴自棄に成ったら、子供達が露頭に迷う。ならば自制しようという気になったのだろう。
矢張り、最後に自分を思いとどまらせるのは守るものがあることなのだろう。いや、主人公は偉い。
新美南吉の赤い蝋燭
そのまんま絵本にできそうな、童話である。
ある日、猿が赤い蝋燭を拾う。それを花火だと思って持ち帰る。
何故花火と思ったのかはよくわからないが、猿の世界では、赤い蝋燭は見たことが無いもので、そういった物は花火だと判断するらしい。
そして、山に持ち帰った花火をみんなで見ようとするのだが、誰も火を付けたがるものはいない。
花火を見るのは好きでも、火をつけるのは恐ろしいし、やりたくないことなのだそうだ。
亀は頑張って火をつけようとするものの、途中で怖くなって首を縮めて隠れてしまう。
鼬はひどい近眼だったため、火を付けられず。
結局勇敢な猪が火をつけた。
しかし、みんなはびっくりして耳と目を閉じてしまった。
当然赤い蝋燭に火がついても、ぽんといって打ち上がることは無かった。
ほのぼのとした、動物どうしの姿が見えて、とても微笑ましい。
しかし、動物というのは花火が好きなのだろうか。
人間は花火を見てたまやーと言って囃し立てており、音が遅れて届くのを心待ちにしているところがあるが、動物からはどう見えているのだろうか。
動物が花火を楽しむのではなく、恐怖している可能性も本来は十分ありえる。
確かに、動物は全く遊ばないわけではない。日々食料を探して、危険から逃げ、子孫を残すことに躍起になっているが、高等な動物はそれらの必要がない時間には結構動物どうしでじゃれて遊んでいたりする。犬はボールを取りに行くし、猫は猫じゃらしを追いかける。烏は滑り台を滑って遊んだりするそうだ。
そう考えると、花火を楽しんでいるのは人間だけないと考える事もできる。
夜に、花火が上がると、人間は空を見上げる。それと同時に動物たちも巣穴から出てきて夜の空を見上げて、花火に対してうっとりする。
なんとも幻想的な光景である。
しかし、赤い蝋燭を見ただけでこれは花火なんじゃないかと思ってしまうほどに花火が好きというのはなかなか面白い。
赤ん坊が何を見てもこれは食べれるかもしれないと思って、口に含んで見るのと同じようなものだろうか。
そして、火をつけるのは嫌だと言うのはなんとも動物的だ。というよりも、火をつけるという発想が出てくるのが面白い。火を使うのは人間の専売特許かと思いきや、森の動物達にもつけることはできる。
本当にそんなことができたら、毎日山火事になりそうなものだが。
そして、怖くても、花火見たさに火をつける。せっかくつけたのにやはり怖くなって目と耳を塞ぐ。
まさに、怖いもの見たさ、そして強烈な好奇心の表れだ。
いかにやってみたいと思っても、電車の非常停止ボタンを押すことのできない、私とは大きな差がある。
結果としては花火は見ることができない。そりゃそうだ、花火では無く蝋燭なんだから。
しかし、これはそんな動物たちの滑稽さを笑うものでは無いだろう。寧ろ、結果は伴わないことにでも、果敢に挑戦していく勇ましさ、恐怖を克服しようとする頑張りが素晴らしいと思える作品なのだと思う。
ある日、猿が赤い蝋燭を拾う。それを花火だと思って持ち帰る。
何故花火と思ったのかはよくわからないが、猿の世界では、赤い蝋燭は見たことが無いもので、そういった物は花火だと判断するらしい。
そして、山に持ち帰った花火をみんなで見ようとするのだが、誰も火を付けたがるものはいない。
花火を見るのは好きでも、火をつけるのは恐ろしいし、やりたくないことなのだそうだ。
亀は頑張って火をつけようとするものの、途中で怖くなって首を縮めて隠れてしまう。
鼬はひどい近眼だったため、火を付けられず。
結局勇敢な猪が火をつけた。
しかし、みんなはびっくりして耳と目を閉じてしまった。
当然赤い蝋燭に火がついても、ぽんといって打ち上がることは無かった。
ほのぼのとした、動物どうしの姿が見えて、とても微笑ましい。
しかし、動物というのは花火が好きなのだろうか。
人間は花火を見てたまやーと言って囃し立てており、音が遅れて届くのを心待ちにしているところがあるが、動物からはどう見えているのだろうか。
動物が花火を楽しむのではなく、恐怖している可能性も本来は十分ありえる。
確かに、動物は全く遊ばないわけではない。日々食料を探して、危険から逃げ、子孫を残すことに躍起になっているが、高等な動物はそれらの必要がない時間には結構動物どうしでじゃれて遊んでいたりする。犬はボールを取りに行くし、猫は猫じゃらしを追いかける。烏は滑り台を滑って遊んだりするそうだ。
そう考えると、花火を楽しんでいるのは人間だけないと考える事もできる。
夜に、花火が上がると、人間は空を見上げる。それと同時に動物たちも巣穴から出てきて夜の空を見上げて、花火に対してうっとりする。
なんとも幻想的な光景である。
しかし、赤い蝋燭を見ただけでこれは花火なんじゃないかと思ってしまうほどに花火が好きというのはなかなか面白い。
赤ん坊が何を見てもこれは食べれるかもしれないと思って、口に含んで見るのと同じようなものだろうか。
そして、火をつけるのは嫌だと言うのはなんとも動物的だ。というよりも、火をつけるという発想が出てくるのが面白い。火を使うのは人間の専売特許かと思いきや、森の動物達にもつけることはできる。
本当にそんなことができたら、毎日山火事になりそうなものだが。
そして、怖くても、花火見たさに火をつける。せっかくつけたのにやはり怖くなって目と耳を塞ぐ。
まさに、怖いもの見たさ、そして強烈な好奇心の表れだ。
いかにやってみたいと思っても、電車の非常停止ボタンを押すことのできない、私とは大きな差がある。
結果としては花火は見ることができない。そりゃそうだ、花火では無く蝋燭なんだから。
しかし、これはそんな動物たちの滑稽さを笑うものでは無いだろう。寧ろ、結果は伴わないことにでも、果敢に挑戦していく勇ましさ、恐怖を克服しようとする頑張りが素晴らしいと思える作品なのだと思う。
2017年5月6日土曜日
宮沢賢治の黄色のトマト
銀河鉄道の夜のような幻想的な話である。
私と話をするのは蜂雀。蜂雀と言うのはハチドリのことらしい。しかも、生きているものではなく剥製になって博物館に飾られているのだ。
蜂雀は語りだす。
どうやらペムペルとネリという子が可愛そうな目にあったらしいのだ。
しかし、この可哀想なことというのを全然しゃべらない。
ペムペルとネリは畑仕事をして、生活をしているのだそうで、いい子たちなのだが、可愛そうな目にあってしまうという。
蜂雀はそれを見ていたそうなのだが、もったいぶって全然どんな風に可愛そうな目にあったのかを教えてくれない。
語りだすかと思いきや、黙って剥製に戻ってしまうのだ。
そしてやきもきしていると、博物館の係の人が来て、蜂雀を脅す。するとまた話し出す。
なんとも夢のような話である。
先ず、蜂雀が話すというのもそうだし、博物館のガラスの中でしかも剥製になっているのに話しかけてくるのだ。
それが私の頭の中だけの話で、妄想なのかと思いきや、博物館のかかりの人も蜂雀が話すということを知っている。しかもそれをおかしいとも思っていない
なんとも不思議な世界観だ。
ペムペルとネリはトマトを植えた。すると黄色のトマトが生る。
そして、ある日、遠くで音楽が聞こえた。そこに行って見ると、音楽を聴くには入り口で黄色い物を渡して、銀色の物を貰う必要があるという事がわかった。
ペムペルは黄色のトマトを取りに家に走った。
それを持って二人は音楽を聞きに入ろうとしたが、トマトでは這入れないと、トマトを投げつけられ、笑われてしまう。
そのペムペルとネルの可愛そうな話を聞き、私は泣いた。
自分たちの大事にしている物を大人は分かってくれないという、なんとも可愛そうな話だ。
きっと、「私」が蜂雀の話をしても、それを聞いて大人は笑うのだろう。
しかし、私がこの話を読んで一番おもしろいなと思ったのは、蜂雀の云う「かあいそう」という文言である。
なにが起こるか解らない不安を、ひたすら煽ってくるのだ。
人間が「かあいそう」と云うならまだ何が起こるのか想像することもできようものだが、蜂雀が何をもって「かあいそう」と思うかは想像ができない。
とても強い引きで、蜂雀が「かあいそう」というたびに何が起こってしまうのかと、先を読んでみたい気持ちが膨らんだ
こういった謎の世界での繰り返しというのは読んでいて、幻想的にもなるし、先を読もう読もうという気にもさせ、とても良い技法だと思った。
私と話をするのは蜂雀。蜂雀と言うのはハチドリのことらしい。しかも、生きているものではなく剥製になって博物館に飾られているのだ。
蜂雀は語りだす。
どうやらペムペルとネリという子が可愛そうな目にあったらしいのだ。
しかし、この可哀想なことというのを全然しゃべらない。
ペムペルとネリは畑仕事をして、生活をしているのだそうで、いい子たちなのだが、可愛そうな目にあってしまうという。
蜂雀はそれを見ていたそうなのだが、もったいぶって全然どんな風に可愛そうな目にあったのかを教えてくれない。
語りだすかと思いきや、黙って剥製に戻ってしまうのだ。
そしてやきもきしていると、博物館の係の人が来て、蜂雀を脅す。するとまた話し出す。
なんとも夢のような話である。
先ず、蜂雀が話すというのもそうだし、博物館のガラスの中でしかも剥製になっているのに話しかけてくるのだ。
それが私の頭の中だけの話で、妄想なのかと思いきや、博物館のかかりの人も蜂雀が話すということを知っている。しかもそれをおかしいとも思っていない
なんとも不思議な世界観だ。
ペムペルとネリはトマトを植えた。すると黄色のトマトが生る。
そして、ある日、遠くで音楽が聞こえた。そこに行って見ると、音楽を聴くには入り口で黄色い物を渡して、銀色の物を貰う必要があるという事がわかった。
ペムペルは黄色のトマトを取りに家に走った。
それを持って二人は音楽を聞きに入ろうとしたが、トマトでは這入れないと、トマトを投げつけられ、笑われてしまう。
そのペムペルとネルの可愛そうな話を聞き、私は泣いた。
自分たちの大事にしている物を大人は分かってくれないという、なんとも可愛そうな話だ。
きっと、「私」が蜂雀の話をしても、それを聞いて大人は笑うのだろう。
しかし、私がこの話を読んで一番おもしろいなと思ったのは、蜂雀の云う「かあいそう」という文言である。
なにが起こるか解らない不安を、ひたすら煽ってくるのだ。
人間が「かあいそう」と云うならまだ何が起こるのか想像することもできようものだが、蜂雀が何をもって「かあいそう」と思うかは想像ができない。
とても強い引きで、蜂雀が「かあいそう」というたびに何が起こってしまうのかと、先を読んでみたい気持ちが膨らんだ
こういった謎の世界での繰り返しというのは読んでいて、幻想的にもなるし、先を読もう読もうという気にもさせ、とても良い技法だと思った。
新渡戸稲造の平民道
平民道
渡米船上の感激
ここはこれから平民道を書く上でのまえがきの部分である。
新渡戸稲造は武士道を書いたことで有名な人物で、武士の他に平民の道に関しても書いたことがあったのは知らなかった。武士道は読んだことが無いので、平民道から読むのも画竜点睛を欠く感じで何なのだが、気にせず感想を書いていこうと思う。
新渡戸稲造は渡米する時船の上でデモクラシーについて考える。デモクラシーとは日本語で民主主義のことだ。このデモクラシーが国体と相反するように思われていることを新渡戸稲造は残念に思っている。
因みに国体とはその国のある姿のことで、この時代で言うと天皇主権のことを云う。
天皇が主体の君主制の国である日本ではデモクラシー、つまり民主主義は民が主体になる点で、天皇と相反する。その為デモクラシーは国体と相反するという風に思われていたようだ。
今では、この民主主義は当然のことで、天皇は象徴だと言うのが普通のことになっているが、一昔前は民主主義が国体を揺るがすのでは無いかとまでに思われていたのが面白い。正しくは常識が完全に変わっているのに、なんとも思っていない現代の人々の心持ちが面白いと思える。
何はともあれ、新渡戸稲造はここからデモクラシーは平民の道であり、天皇の主権と相反するものでは無いという事を語ってくれる。
デモクラシーは平民道
何でもこの頃デモクラシーというのは流行になっていたらしい。今で言う、インスタグラムが流行っているというようなものであろうか。
しかし、新渡戸稲造は流行だからデモクラシーを標榜しているわけでは無いらしい。
もともと、武士道を書いていたときからデモクラシーの素晴らしさ、必要性には気付いていたと、声高に主張している。
そもそも、デモクラシーは民主主義と訳されている事が間違いの元だと思っているらしい。新渡戸稲造によると、デモクラシーの訳は平民道になるべきなのだそうだ。
民主主義と平民道では、その言葉から受ける印象が随分違うように思える。民主主義というのは、民が主になって政治を行うという、あくまで政治的な国の形を示してるように見える。これはきっと、主義という硬い言葉のイメージが政治色を想起させるのだろうと思える。
これに対し平民道は心も持ちよう、つまり道徳的なイメージを感じる。道と言うのは武士道を始め、剣道や柔道、華道、道教など、そのものを通して行う哲学的な考え方を指すようなイメージが有る。
つまり、新渡戸稲造はデモクラシーと言うのは政治的な制度の事を云うのではなく、そこに生きる人民の心の持ちよう、考え方、道徳のことを指すのだと、主張している。
そして、この平民道はどこから出てきた言葉かというと、武士道を延長させて作った言葉なのだそうだ。
武士道は少数の武士の守るべき道である。しかし、この時代、武士は廃止され、士族と言うのは戸籍上書いてあるだけのタダの文字列とかした。
つまり、もうすでに階級的な差は無くなり始めていたのである。階級の差が亡くなって武士がいなくなったら、次は一般民衆にその教えを広げるべきと考えた。
平民の平は武士の武力に対して平和の平。士に対し、民。ということで、平民道なのだそうだ。
平民道は武士道の延長
武士がいなくなったからと言って、その考え方を無くして、新たに平民の考え方を作る必要はない。平民に武士の考え方を教えれば良いのだ。
要するに道徳的教えを平民のレベルに下げるのでは無く、平民を皆、武士のレベルに引き上げる。それ故平民道は武士道の延長であるということになる。
武士は食わねど高楊枝。
こんな言葉があるように武士はなかなかに高潔な存在である。仁義礼智信など、およそ物語の主人公が持っているような能力は全て備えている。
昔はそういった高潔な教えを受けた存在は少なく、それが武士だった。これを広く民衆全員に教えたら良いのではないか。
実際これは大成功したように思える。
なんとも皮肉的な見方になってしまうが、ナショナリズム=国民主義。全体主義。というのはこれと同じ考え方なのだろう。
皆が、武士と同じ気持ちになれば、国を思う気持ちは全員が強くなる。全員が自らの国を守らねばと、責任感を感じるようになる。それがナショナリズムで、戦争へと日本人を駆り立てた力の一つなのだろう。
ここで僕は戦争が良いか悪いか、ナショナリズムが良いか悪いかを云うつもりは無い
それこそ個々人が判断すれば良いことだろう。まあ、きっとそれを判断せずに皆が言われたことを信じるのもまた、全体主義、ナショナリズムなのかもしれないが。
ここで、もう一つ新渡戸稲造考えを書いておく。それは武士が先か武士道が先かという話だ。まさに卵が先か鶏が先かという話なので、結論は出しようが無いのだが、新渡戸稲造は武士の前に先ず、武士道という武士の考えがあったと考えているようだ。
その為、民衆に対しても制度として、民衆を作るのではなく、平民道という教えを通して、平民を形成していくべきだと考えていた。
デモクラシーは国の色合い
これは先に書いた。平民が先が平民道が先かという話である。
国とは何なのか。共和制という制度を敷けば共和制の国になるのか。
因みに共和制というのは君主や貴族などが国を動かすのではなく、民衆の代表者が話し合いで国を動かしていく制度の事を指す。
新渡戸稲造は当然、共和制という制度だけしいても、共和制の国にはならないと、考えている。これはデモクラシーでも同じだ。デモクラシーつまり民主主義の制度に国の憲法を変えたところで、そこに生活する一般大衆がついて来なければデモクラシーは完成しない。
人が先か法律が先かは人が先になるのである。酒を作るのを禁止したところで、梅酒を作るのはもはや日本の文化。それを止めようとして法律を制定しようとも、皆が守ってくれなければ法律の体をなさない。なし崩し的に梅酒は作るのが問題ないという風に変わっていってしまうのだ。
その為デモクラシーを行うには先ず、平民道を広く平民に教え、平民を教化してから、自然と国としての形をなしてくると考えたのだ。
実際今の日本は新渡戸稲造のこの教えを実践できているのだろうか。
つまり、皆の心のなかに平民道があり、それゆえ、その色合いが政治にも現れるという風になっているだろうか。
2017年5月5日金曜日
夢野久作のキャラメルと飴玉
キャラメルと飴玉
キャラメルと飴玉が言い争いをするという、なんともファンシーな話である。
五十歩百歩であるということを言いたいのかと思いきや、最後に違うどんでん返しがあるところがとてもおもしろい。最初に何気なく書いてある「お菓子箱のうちで喧嘩を始めました」というのが実は伏線である。
何が原因で喧嘩になったのかは解らないが、いきなり言い争いをしている。キャラメルの主張は自分は個別梱包されていて、紙で包まれ、箱に入れられている事を誇りに思っており、飴は着るものもないからざまーみろといっている。
兎も角、先ずはキャラメルと飴にとっては梱包のされ方が重要であるらしい。飴の談に因るとうちにいるときは裸だが、外に行くときには三角の紙に包まれるらしいが、いまいち何のことかはよくわからない。
時代が違うとパッと聞いたときに解らないことが出てるのが難しい。少し、ググって見た感じ、正四面体っぽく紙を折ってその中に飴を入れたという習慣があったのかもしれない。まあ、画像検索で出てきただけなので確実にそうだとは言えないが。
次の論点は名前が洋風だと生意気か、和風だと安っぽいかということに移る。当然キャラメルは洋風。飴は和風である。
次は中に入っている物が何かということである。キャラメルの中には牛乳が入っている。飴の中には肉桂が入っている。どちらがより立派で健康的かで争う。
そのキャラメルと飴の争いに他のお菓子も入ってきて乱闘になる。
なんともスケールの小さな話である。ここまで見ていると、どちらも甘ったるいお菓子ということで然程違いは無いのに、小さなことで争って五十歩百歩だと言う話に落ち着きそうに思ってしまうところである。しかし、そこは夢野久作。外部から新たな登場人物が現れる。それが坊っちゃんだ。
坊っちゃんがお菓子の箱を開けてみると、キャラメルやら飴やらが全てくっついてしまっており、金槌でパラパラに叩き割られて、食べられることになる。
お菓子が喧嘩をすれば全てくっついてしまうのは当然だ。
いや、そもそもお菓子はただの砂糖の塊であり、喧嘩をするものではない。坊っちゃん側から見たときにはお菓子の箱を開ける前の箱の中はブラックボックスである。観測者がいない中で何が行われていても不思議ではない。そして観測者がその箱を開け、中を観測したときに、お菓子がくっついているという結果が現れる。
言うなればトイ・ストーリーの世界だ。玩具たちは人知れず大冒険をしているのかも知れないが、人はそれを知らない。
この話自体は、母親が子供に聞かせる、まさに子供だましな話のように思う。
「ねえねえ、お母さん。何でお菓子はくっつくの?」
「それはね、箱の中で喧嘩をしているからだよ」
こんな会話が何処かで行われていても何らおかしくはない。
きっと夢野久作も子供に聞かせる与太話として、この話を作ったに違いない。子供の疑問は色々ある。何と言ってもまだこの世に出てきたばかりで、知らないことのほうが多いのだ。疑問が次から次へと出てくるのは当然だ。
そして、子供は言われたことを信じやすい。だから、親は面白がって子供に煙突からサンタクロースが来ると言うようなトンデモ話を聞かせて喜ぶのだ。
どうせ、真実はいずれ知ることになる。ならば子供の疑問にはお菓子の喧嘩の話のように、夢のある想像力を掻き立てるような解答を提示するのはとても親子関係として、そして、子供の想像力を育むキットとして優れているのではないだろうか。
夢野久作の医者と病人
医者と病人
あらすじ……というか全文
死にかかった病人の枕元でお医者が首をひねって、
「もう一時間も六カしいです」
と言いました。
「とてもこれを助ける薬はありません」
これを聴いた病人は言いました。
「いっその事、飲んでから二、三日目に死ぬ毒薬を下さい」
「もう一時間も六カしいです」
と言いました。
「とてもこれを助ける薬はありません」
これを聴いた病人は言いました。
「いっその事、飲んでから二、三日目に死ぬ毒薬を下さい」
感想
超絶短い。
ちなみに、「六カしい」と言うのはどうやら「むつかしい」と読むらしい。青空文庫の朗読でそのように読まれていた。
話としては毒なのか薬なのかという内容である。
もう一時間も生きていられないなら、二三日後に死ぬ毒を飲めば、二三日は生きられるのではないか。
という、まあ一種の皮肉のようなものだろう。当然二三日後に死ぬ毒を呑んだところで、体が一時間後に死ぬはずなのに、二三日後に死ぬという新たな司令の入った毒を呑んだことでバグを起こし、延命するなんてことは、プログラミングでない人間の身ではあり得ないことだ。
パソコンだったらそういうこともあるのかもしれない。いや、エラーが起きてその場で固まる可能性の方が高そうだ。
でも、実際自分がこんな状況になったら、二三日後に死ぬ毒をくれ、というような皮肉の一つも言ってみたくなる気持ちは分かる。
2017年5月4日木曜日
夢野久作の森の神
森の神
あらすじ
超短編。もしかしたら原稿用紙一枚分もないかもしれないど短編。星新一もびっくり。
森の神様は砂漠に泉を湧かせて、木を生やしオアシスを作ってあげる。これは旅人が困らないようにという森の神様の配慮であった。
しかし、ある日大勢の人がやって来て、オアシスに家を建て、柵を作った。そして、オアシスに立ち入るものたちから、金を取るようになる。
これに腹を立てた森の神は森を枯らして泉を涸らせてしまう。それに対して、旅人から金を取っていた人たちは森の神様を恨んだ。
感想
夢野久作が裏に何を込めてこの話を作ったかは知らないが、僕には法律の事が思い浮かんだ。
貧者のために良かれと思って作った法律が逆の働きをしてしまう。例えば最低賃金とか。最低賃金を決めれば労働者は給料が高くなって喜ぶだろうと思いきや、経営者は雇う人数を減らして、結局総量で言えば賃金が下がってしまう。みたいな。
この場合、森の神というのが国で、旅人から金を取る人が経営者、旅人が労働者と言ったところだろう。この後、森の神は起こって泉を涸らすが、これはこの場合何を意味するのだろうか。企業お取り潰し、国有化、いや、共産主義化かも知れない。泉が涸れたら結局旅人も困る。そういう点では企業の取り潰しが一番近いだろう。こう考えると、森の神結構過激だ。リーマンショックがおきてしまう。
でも、森の神というならもう少し違う解決方法があるのに何故それはしなかったのだろうか。別にオアシスなくすのではなく、新しく別の所にまた違うオアシスを作ればそれでいいじゃないか。
森の神様の能力にも限界があって、オアシス一つを管理するので精一杯ということなのか。それともただ意地悪なのだろうか。
神様にも限界がある。この考えはとても日本的で、個人的には好きな考え方だ。どこまでも際限なく神様が救ってくれる世界では面白みがない。いかに、神様と雖もできないことはある。まあ、この場合全知全能とは言えないが。
そして、日本の神は総じて意地悪と決っている。というよりも、民話を見ていると無邪気な感じがする。天照大御神が天の岩戸に篭ってしまうなんてのはまさしく、そんな子供っぽい意地悪さの現れな気がする。
どちらにしろ、無限に資源を出してくれる状況を想定しても、現実に全くそぐわなくなってしまうからアウトだったという気もする。
もし、森の神様が新しいオアシスを出してくれたらどうなっていたのだろう。
また、そのオアシスも柵で、囲われ金を取るようになる。
そして、新しいオアシスが作られ、そこも柵で囲われ、金を取るようになる。
しかし、次第にオアシスが増えてくると、価格競争が激しくなり、なかなか、旅人から大金をせしめる事ができなくなる。
すると、柵を建てたときのローンが払えなくなってくる。困った、その人達は談合を始める。
最初はみんなで、高い金額を設定してそれなりに儲けるのだが、裏切り者が現れる。一つのオアシスが安売りを始めるのだ。するとまた、価格競争に逆戻り。
遂には柵のローンが払えなくなって破綻するものが現れる。それを最初に談合を破って儲けた業者が買い取る。すると、自分の資本の大きさに任せて、更に安売りをし、周りのオアシス業者をどんどん弱体化させ、買い取っていく。
気がつけば全てのオアシスは合併し巨大オアシス会社になる。一社しかなければ、価格設定は思うがまま。旅人から高い利用料をふんだくる。
森の神はまだまだオアシスを作る。
しかし、できたオアシスは全てその巨大企業に柵を建てられ、自分たちのオアシスの価値が下がるからと言って、埋立てしまう。
これに怒った森の神は全てのオアシスを涸らしてしまう。
気がつけば結局同じ話になってしまった。
森の神にオアシスを作ると涸らすの選択肢しかない時点で、すでに八方塞がりだ。
寧ろ森の神は旅人に何をすることができたのだろうか。
人類の歴史は連綿とこのことを考えてきた歴史のようだと思う。言って締めくくる。
きのこ会議
きのこ会議
タイトルの通りきのこが集まって会議している。なかなかファンタジーな物語である。というよりも童話、寓話と言ったほうがいい作品だ。
きのこ達が演説をするのだが、その演説をするきのこは大きく二つにわけられる。それは椎茸、松茸のような、人間が食べられる物と、食べたら痛い目に遭う毒きのこだ。
椎茸は人間に食べられ喜ばれることを誇りに思っている。松茸はそうは思いながらも、かさが開ききって胞子を飛ばす前に人間に食べられることを残念がっている。というのも、胞子を飛ばさねば子孫を増やすことができないからだ。
それに対し毒きのこは、自ら毒を持っていないから子孫を増やす前に食べられるのだと演説をする。役に立つから食べられる。役にたたなければ取られることは無いのだと食用キノコの考えを否定する。
他のきのこもこの考えに賛同する。毒にさえなれば、恐いものは無いと。
ここまでがきのこ達の議論である。確かに、きのこに限らず他の植物や畜生も人の役に立てば、人の手によって殖やしてもらえる。しかし、それが完全に種のためになるかというとそこにも疑問は残る。というのも、例えば、品種改良や遺伝子組み換えで人間の役に立つようになったとしても、それはもう、人間の庇護下でしか生きられない生物になるということである。それは長期で見たときにつまり、人類が滅んだ後のことなどを考えると必ずしも人の庇護下にあることが正しいとは思えない。その為、人の役に立つことも良し悪しがあると考えられる。
逆に毒を持つことはどうなのだろうか。役にたたねば殖やしてはもらえない。その代わり、自分たちの好きなように生きられる。この場合のデメリットは果たしてあるのか。
これが、ここらかの続きである。きのこの会議が終わると人間の家族がやって来る。そしてきのこが密集して生えているのを見つける。何故密集しているか。それはそう、会議をしていたからである。
そこには大きいきのこも小さいきのこもある。食べられるきのこに関しては、人間の側で大事に、小さいきのこはとっておこうという話になる。しかし、毒きのこは憎らしいからと言って全て踏み潰されてしまう。
通して読んでみると、結局悪いことをしてはいけません。という話になるのだろうと思う。毒を持ってブイブイ言っているとしっぺ返しをくらうという。
これを寓話として考えるなら実際の人間社会ではどうなのだろうか。反社会的を毒と考えるならヤクザとかテロリストになるのだろうが、この毒きのこはあくまで受け身である。自らを食べたものに対して、毒性を発揮する。つまり自分たちを利用しようとする者達に対してカウンターパンチを食らわせる存在。そして、関わり合いにならない限りは別段害を及ぼさない存在だ。つまり、自立した存在で、社会の役に立たず、利用しようとすると反発する。
そんな者は存在するのだろうか。一見ニートや無職の人にも見えるが、彼らは自立できてはいない。では、脱税して納税の義務を果たしていない者か。それでも、金銭を獲得して生活している限り、誰かしらの役には立っているはずである。では、資産家の子供で、働かずに浪費するだけの人なら当てはまるか。いや、金を払うからにはそれによって喜ぶ相手は存在する。
今の人類社会で何らの社会の役にたたず、自立することは、山にでも篭もらない限り難しい。そう考えると、僕は毒きのこが逆に羨ましく感じる。自分の身は自分で守り、自分だけで生きていく。なんともハードボイルドな生き様だ。
まあ、踏み潰されてしまってはなんともならないが。
2017年5月3日水曜日
夏目漱石の変な音
変な音
あらすじ
主人公は胃弱かなんかで病院に入院している。その当時、隣の部屋から大根をするようなゴシゴシという変な音が聞こえてくる。その音が妙に気になって仕様がなかったが、遂に原因を究明すること無く、隣の人は退院し、自分も退院してしまった。
そして、また入院することになった。そこで、三人の者と知り合いになる。一人は食道癌、一人は胃癌、そしてもうひとりは胃潰瘍であった。食道癌の者は退院し、胃癌のものは死を諦めとし、美しく死んだ。胃潰瘍の人は段々悪くなって死んだ。
そんな中、変な音の原因を知ることになる。
隣の部屋の担当だった看護師とひょんなことから知り合い、隣の人が逆に音を気にしていた事をしる。それは自らの立てるひげ剃りの音で、それを健康の印と思っていた隣人は大層羨ましがっていたそうだ。そして、気になっていた隣人の立てる変な音はきゅうりを擦って患部に貼る音だった。そして、その隣人は退院したはものの、すぐに直腸癌で死んでしまったという。
そして、胡瓜の音で人を焦らせて死んだ男と、ひげ剃りの音で他人を羨ましがらせて回復した男に何の違いがあったのかを考えた。
感想
なんともまあ、病人の多い話である。舞台が病院である時点で、病人が多いのは仕方の無いことだが、まあ出てくる人出てくる人が死ぬ話である。胃癌で死に、胃潰瘍で死に、大腸癌で死ぬ。体調が良くなったのは食道癌の者と自分だけだ。そんな死が身近にある不安なところではきっと少しの物音も気になるのだろう。
隣の部屋から変な音がする。それも何かを擦るかのような。日常生活で生きていても、何の音か分からないが気になる音と言うのはある。だが、殆どは何の音か分かるものが多い。上からゴトリという音がしたらそれは十中八九椅子を動かした音だし、隣から漏れてくるピアノの音は勘ぐるまでもなくピアノの音に相違ない。日常生活では凡そのことは想定ができるのだ。
それに対し、病院というのは非日常である。非日常的な空間では自分の知らない事、自分の想定できない何かが行われていても、不思議はない。そのため、隣から漏れる音の正体が分からないということがおきうる。夜中に胡瓜を擦る人がいると言うのはなかなか想像のしようがない。それも熱った足を冷やすために胡瓜の擦ったものを塗るというのは、僕が現代人でおばあちゃんの知恵的なものを知らないのが原因かも分からないが、なかなか分かるものではない。
そういった謎の音を、死の恐怖に震えながら聞いていたのである。どういった気持ちだったのだろうか。文には脳神経を刺激するとか焦らせるとか書いてあるので、あまり良い気持ちで聞いていなかったのは確かである。しかし、この変な音が聞こえると言うのはただただ嫌なものだったかというとそんな事は無いように思う。
隣人の音が聞こえる。隣人の音が聞こえなくなる。これらの二つは何を意味するか。隣人の音が聞こえるということは、隣に人がおり、確実に生きているということが分かる。しかし、音が聞こえなくなると、それは退院した可能性もあるが、死んでいる可能性もある。
胃潰瘍の者はげえげえと吐く音を響かせていた。しかし、いつしかその音が聞こえなくなり、主人公は回復したのだろうと考えたようだが、実際には声をだす気力さえも失われる程死に近づいていたのである。
病院では死はとても身近にあり、互いの生を知るすべは音しか無い。そんな中で聞こえてくる変な音は神経を逆撫で擦る音だったとしても、隣の人が生きているということが分かるホッとする音だったのでは無いだろうか。
この主人公は生来大変消極的な人であるような気はするが、改めて考えてみると、隣の人に悪いからと言って、隣を覗かず、話しかけず、関係を持たないと言うのは、なんとももったいないことのように思える。病院に入っているということは誰しも体調が悪く同じような恐怖を持っている。いわば同志のようなものでは無いだろうか。お互いに話をすることができれば、死の恐怖の克服にもつながるような気がする。
だが、実際どうなのだろうか。僕自身は大病をして入院したことは無いから分からないが、入院している者同士で話をするということは精神衛生上良い事なのだろうか。何となく単純に互いにコミュニケーションを取る事それ自体が精神に対して好影響を与える体で書いたが、実際は負と負のオーラの相乗効果によって互いの体調が悪化するとういこともあり得るのだろうか。もしそうだとすると、お互いの顔を見ず、音を聞きあうことで互いの生を確認し合うというぐらいの関係性の方が良いのかも知れない。
そして、最後に主人公は隣人も自分の音を気にしていたということを知る。まさにコミュニケーションそのものだ。お互いがお互いの音を気にし合う。そして、片方は死んでしまい、もう片方は回復する。そこに何の違いがあったか考えると言うのはきっと反語表現だろう。何の違いがあったのか、いや無いだろう。
皆が皆死に直面しており、そこに例外のある人はいない。それでも体調が良くなる者、悪くなる者という違いは出てくる。まさに運命と呼べるものだろう。これは病院だけに当てはまるものでもない。人生生きていて、同じようにしていても何らかの違いは出てくるものだ。ただ、自分が生きているということだけでも、死の運命を毎日乗り越えているという風に考えることもできる。
日々を生きていける。ただ生きていることの幸せを噛みしめる。そんな話なのでは無いかと締めくくる。
2017年5月2日火曜日
芥川龍之介の黒衣聖母
黒衣聖母
概要
芥川龍之介の短編
メリメ作『イールのヴィーナス』が典拠になっているらしいが、僕はそんな作品知らない。
メリメ作『イールのヴィーナス』が典拠になっているらしいが、僕はそんな作品知らない。
あらすじ
話は田代君が黒衣聖母を見せてくれたところから始まる。黒衣聖母と言うのは聖母マリア様を象った像なのだが、色が白ではなく黒のものである。そして、主人公である私がその黒衣聖母を不気味に思っていると、田代君がその黒衣聖母像にまつわる不気味な話を語りだす。
少し前の富豪の家での話。祖母と姉、弟がいた。しかし、弟の体調が大変悪い。そこで、祖母は黒衣聖母に祈りを捧げる。この弟が死ぬと跡継ぎがいなくなる。すると家が潰れてしまうため、祖母の息が続く限り、弟の命を守って欲しいと。
黒衣聖母はその願いを聞き入れたのか。弟の体調はみるみる良くなる。そして、それに安心した祖母は息を引き取ってしまう。すると弟の体調も急変し、祖母の後を追うように死んでしまう。
つまり、祖母の息が続く限りは弟の命を守ったということなのだ。これが福転じて禍となす黒衣聖母像の伝説である。
そして、黒衣聖母像の台座には『汝の祈祷、神々の定め給う所を動かすべしと望むなかれ』と書いてある。
それを見て私は不気味に思うという話。
感想
話としては悪魔に願った人のようなものである。願った事は叶うのだが思った形では叶わない。
そもそも、祖母が何故自分が生きている限りなどという限定をつけたのかはよくわからない話である。どうせ願うのならば、孫を不老不死にして下さい。当然制限は付けずにとでも願えば良かったのでは無いだろうか。あまり大仰な願いにすると叶わないとでも思ったのだろう。謙虚は美徳と言われているが実際にはそうでもないことのほうが多そうだ。
何でも交渉術を用いる際には先ず、相手に吹っかけてみて、それに対し相手がNOと言ってきた場合に交渉が始まるようだ。最初に相手にNOと言わせる事自体が交渉でのカードになる。つまり、もうすでに相手の意見を突っぱねたのだから、もう少し譲歩したら呑んでくれるだろうということだ。日本の車に関税をかける。とか言う無理難題を吹っかけてきてから、交渉を始めるというどこぞの国の外交政策にも似たところがある。
なにはともあれ、このおばあさんは交渉のイロハを知らなかったばっかりに最初から要らぬ譲歩をしたがために、自分も孫も死ぬ羽目になった。
しかし、待て。その交渉術は相手が意思表示をしてくる時でしか使いないだろうという意見が出てくる。確かに黒衣聖母像は話すことができないので、こちらの要求に対してYESもNOも言わない。弟を助けてくれ。と頼んでYESだったら良いが、もしNOだった場合にその状況を知るすべがなく、祈りは聞き届けられたと思って、実際は不履行なのを知らずに弟が死ぬ可能性もある。だから、最初から譲歩をして、確実に弟が助かるようにするべきだとも考えられる。
しかし、ここで少し考えて欲しい。譲歩をすれば願いが叶う確率が高まるのか。そんな確信はどこにもない。何でも願えば叶うものでもない。ならば譲歩しさえすれば叶うのか。そんな保証もないし、そんな論理もない。そもそも、全知全能なる神の論理は人間には計り知れないだろう。だったら、最初から無手で自分の願いを願えばよかったのだ。ただ弟の命を救ってくれ。それだけで、よかったのだ。
だが、相手は神ではなく黒衣聖母像。もしかしたら悪魔かも知れない。それでも矢張り、ただ祈ればよかったのだ。無駄に言葉を尽くすからこそ足を掬われる。沈黙は金とはよく言ったものだ。喋れば喋るほど政治家は失脚していく。人は話す失言製造機なのだ。だから、懸命な政治家のように黙って一言、弟を頼むと言っておけば後はきっと向こうで忖度してくれただろう。
そも、ここまでは黒衣聖母像には願いを叶える力があるとして語ってきたが、偶然物事が重なっただけという風にも考えられる。
まあ、この話自体は力があるかどうかではなく、ただ、神に祈って裏切られることがあるという驚きを表した話なのだろう。なので、偶然かどうかはそれほど重要ではなく、神に祈るという行為そのものの虚しさを示しているように思える。
それはおいておいて、僕自身は謎の力はあると思っている。それは神の力があるということではなく、黒衣聖母像は何となく不気味というそこから受けるイメージの力に因るものだ。不気味な物に相対すると不気味な事が起きるような気がする。墓地が裏にあるとゾワゾワするのと同じだ。しかも、それが古いものであるなら、不気味だと思った人が身近な不気味な物事と結びつけ、その像自体の不気味さをエピソードを付け加えることによって増幅する。その増幅した不気味さを人に伝える時にも、以前よりも不気味な印象を与えるように人に伝える。なんといっても不気味なエピソードは段々増えるのだから、伝え聞くのが後になればなるほど、不気味さはます。そして、その不気味なイメージに侵食されたものはネガティブになり、あまり幸せなことにはならず、更に不気味なエピソードを像に追加していくことになる。という風に考えている。
しかし、この台座に書いてある『汝の祈祷、神々の定め給う所を動かすべしと望むなかれ』というのもなかなか非道い話である。望む位良いでないか。大体、何を神々が定めているかもよくわからないのに、それに反することを望んでもいけない。だったら、祈る人なんていないだろうと思う。例えば救われない人がいて私を救って下さいと頼むのは禁止である。なぜなら救われないと決まっているのにそれに反することを望んではいけないからだ。逆に救われる人はどうか。望むまでもない。ならば誰が祈りを捧げるのか。これは運命は変えられないし変えたいと思ってはいけないということであろう。ある意味諦めが良くて個人的には好きな考え方だが、祈りを捧げたい者共にとってはなんともやりきれない文言だろう。
結論は特には無いのだが、触らぬ神に祟り無し。矢張り、怪しいものに近づいてはいけない。それは例え神の名を冠していようと、自らの本能が警鐘を鳴らすものはきっと危険なものなのである。
坂口安吾の悪妻論
この悪妻論と言うのは、要は一般に思われている悪妻は悪妻ではなく、良妻と思われている者こそが悪妻であるという坂口安吾の考えを表した、小論である。
僕自身は結婚をしていないので、良妻、悪妻と言われてもなかなかピンと来ない。だが、一行目に書いてある
まあ、相対的な物というならば、恐らく人間関係は押しなべて全て相対的な物と言えるのでは無いかとも思う。僕にも仲の良い友人はいるが、その友人が世界万民に対し絶対的に良い友人足りうるかと言えば、そんな事は無いだろう。僕に対してであるから良い友人になっているに違いない。そう、友人関係は相対的なのだ。とは、言ってみたものの僕の友人はなかなか八方美人な気もするので、世界万民に対し友好関係を築けてもおかしくは無い。
なにはともあれ、良妻と悪妻の違いはそれを受け取る者によって変わってくるというのが坂口安吾氏の考えなのだろうが。何をして、そういった考えに至ったのかはよくわからない。何をしてというのはきっかけのことなのだが、悪妻論に書いてあることに従えば恐らく、平野君の包帯姿を見た事がトリガーになって、悪妻について考え、悪妻論という本を書こうという気になったのだろう。しかし、それ以前に気になるのは平野君とその細君に関してではなく、坂口安吾氏とその細君の関係性である。
この悪妻論の初出は青空文庫に因ると1947年7月だそうで、坂口安吾が細君であるところの坂口三千代と出会ったのが1947年3月。結婚が1947年9月だそうだ。
僕自身は作品と作家は分けて考えるべきと思っており、その作品のバックボーンを調べるのは邪道であるとすら考えていたのだが、なかなかどうして、調べてみると人の生活を裏から覗くような出歯亀的な楽しさがある。3月に出会い。7月に悪妻論。9月に結婚。一体何を思ってこの悪妻論を書いたのであろうか。
結婚前ということで真っ先に思い浮かぶのはマリッジブルーであろう。
何の根拠もないが、これは婚前契約書なのでは無いだろうか。この悪妻論一般論を語っているように見えて、割りと主観的且つ個人的な話が多い。例えば浮気をされても魅力的だの、知性が無いのが魅力が無いだの。夫婦関係が相対的だと言うなら、それだってそれぞれの関係によって良し悪しでいいではないか。しかし、相対的と言っておきながらも、あくまで絶対的っぽい意見を言いまくっている。これは坂口安吾から奥さんへのメッセージなのではないか。少々浮気をしても魅力的だ。言い争いになっても知性があることが魅力的だ。辛いことがあってもそれが人生だ。だから君は良妻になろうと頑張らず、自由に魅力的にあって欲しい。そういうメッセージのように思える。
そんな風に思えるのだが、最後に疑問が残る。それが平野君だ。平野君の細君はどうやら戦争犯罪人の如き暴力者だそうだ。それでも細君を愛している平野君は立派だと言いながらも、それは揶揄にも聞こえる。家庭内暴力に関して、悪妻論には書いていないのだが、もし自らの細君が平野君の細君のように攻撃を仕掛けてきたら、それに対しては坂口安吾氏は何を思うのだろうか、魅力的だと思うのだろうか。
僕自身は結婚をしていないので、良妻、悪妻と言われてもなかなかピンと来ない。だが、一行目に書いてある
悪妻には一般的な型はない。女房と亭主の個性の相対的なものであるから……ということに関しては、きっとそうなのだろうなと思うことぐらいはできる。
まあ、相対的な物というならば、恐らく人間関係は押しなべて全て相対的な物と言えるのでは無いかとも思う。僕にも仲の良い友人はいるが、その友人が世界万民に対し絶対的に良い友人足りうるかと言えば、そんな事は無いだろう。僕に対してであるから良い友人になっているに違いない。そう、友人関係は相対的なのだ。とは、言ってみたものの僕の友人はなかなか八方美人な気もするので、世界万民に対し友好関係を築けてもおかしくは無い。
なにはともあれ、良妻と悪妻の違いはそれを受け取る者によって変わってくるというのが坂口安吾氏の考えなのだろうが。何をして、そういった考えに至ったのかはよくわからない。何をしてというのはきっかけのことなのだが、悪妻論に書いてあることに従えば恐らく、平野君の包帯姿を見た事がトリガーになって、悪妻について考え、悪妻論という本を書こうという気になったのだろう。しかし、それ以前に気になるのは平野君とその細君に関してではなく、坂口安吾氏とその細君の関係性である。
この悪妻論の初出は青空文庫に因ると1947年7月だそうで、坂口安吾が細君であるところの坂口三千代と出会ったのが1947年3月。結婚が1947年9月だそうだ。
僕自身は作品と作家は分けて考えるべきと思っており、その作品のバックボーンを調べるのは邪道であるとすら考えていたのだが、なかなかどうして、調べてみると人の生活を裏から覗くような出歯亀的な楽しさがある。3月に出会い。7月に悪妻論。9月に結婚。一体何を思ってこの悪妻論を書いたのであろうか。
結婚前ということで真っ先に思い浮かぶのはマリッジブルーであろう。
魅力のない女は決定的に悪妻だとあるように、細君の魅力が薄れ、悪妻になってしまうのを恐れているようにも見て取れる。結婚生活は長い。自分のパートナーが常に自分にとって魅力的な良妻であるとは限らない。結婚するまでは魅力的だったのに、結婚した途端魅力が薄れる。子供を産んだ途端魅力が薄れる。長い共同生活の倦みで魅力が薄れる。魅力がなくなっていく可能性などというものは山ほどに考えられる。だからこそ、マリッジブルーになって、こんな本を書くよになったとも考えられるが、やはりそれは違う気がする。
何の根拠もないが、これは婚前契約書なのでは無いだろうか。この悪妻論一般論を語っているように見えて、割りと主観的且つ個人的な話が多い。例えば浮気をされても魅力的だの、知性が無いのが魅力が無いだの。夫婦関係が相対的だと言うなら、それだってそれぞれの関係によって良し悪しでいいではないか。しかし、相対的と言っておきながらも、あくまで絶対的っぽい意見を言いまくっている。これは坂口安吾から奥さんへのメッセージなのではないか。少々浮気をしても魅力的だ。言い争いになっても知性があることが魅力的だ。辛いことがあってもそれが人生だ。だから君は良妻になろうと頑張らず、自由に魅力的にあって欲しい。そういうメッセージのように思える。
そんな風に思えるのだが、最後に疑問が残る。それが平野君だ。平野君の細君はどうやら戦争犯罪人の如き暴力者だそうだ。それでも細君を愛している平野君は立派だと言いながらも、それは揶揄にも聞こえる。家庭内暴力に関して、悪妻論には書いていないのだが、もし自らの細君が平野君の細君のように攻撃を仕掛けてきたら、それに対しては坂口安吾氏は何を思うのだろうか、魅力的だと思うのだろうか。
2017年3月4日土曜日
2017年2月3日金曜日
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2017年1月11日水曜日
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